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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第49回

東邦スクールバンド黄金時代

1963

更新⽇:2019年2月8日

両陛下のご成婚で祝賀パレードも

栄・広小路通でのご成婚祝賀パレード。右下は先導する稲垣教諭

戦前は出征兵士行進の先導も担うなど名古屋で行われる主要パレードの多くに駆り出された東邦商業音楽部の吹奏楽隊。東邦高校となった戦後も甲子園を沸かせ、名古屋まつりパレードを盛り上げるなど市民に愛され続けました。カリスマ的存在でもあった指導者の稲垣信哉教諭は音楽部を「スクールバンド」と呼び、その育成に情熱を注ぎ続けました。

東邦中学・高校時代の1956(昭和31)年4月から1962(昭和37)年3月までの6年間、音楽部に所属した中路正郎さん(75)(名古屋市千種区)は「一番の思い出は、今の天皇陛下が皇太子殿下の時、美智子妃殿下とのご結婚を祝い、栄をパレードしたことです」と振り返ります。中路さんが高校1年生に上がった1959(昭和34)年)4月の時で、蝶ネクタイ姿の稲垣教諭を先頭にしたパレードの様子は卒業アルバムに収められていました。

1960(昭和35)年2月23日には現在の皇太子さまが誕生。東邦高校の卒業アルバムにも名古屋市公会堂で開かれた「親王さまご誕生 お祝い音楽会」で演奏する東邦高校スクールバンドの写真が収められていました。

「普段の活動では交響楽的な演奏に取り組む一方で、大きなイベントがあると、東邦高校のバンドと県警音楽隊の出番でした」と中路さんは言います。

東邦高校は戦前から東海地区代表として全日本吹奏楽コンクールに連続出場を続けました。野球部は戦前の甲子園で3度優勝にしましたが、音楽部もまた稲垣教諭が部員だった時代に2度の全国優勝に輝きました。戦争によって中断されたコンクールは、中路さんが東邦中学に入学した1956年に日本吹奏楽連盟と朝日新聞社の主催によって再開されました。

中路さんはクラリネットを担当。練習は空いている教室を使ってのパートごとに行われ、帰宅は午後8時を過ぎる時もありました。中路さんは中学3年生の時、レギュラーになることができ、名古屋で開催された第6回全日本コンクールに出場しました。

「中学生には出場資格はありませんでしたが、稲垣先生が〝内緒にしとけよ〟と言って出してくれました」。中路さんは懐かしそうに振り返りました。

 

カリスマ指導者に会いたい

名古屋市公会堂でのお祝い音楽会で演奏する東邦高校音楽部

中路さんより1学年上で、伊勢湾台風後、知多市の自宅から自転車で28㎞先の東邦高校を目指した大堀道之さん(76)の体験談を第47回で紹介しました。2018年6月に、OBとして東邦学園公式バンド「TOHO MARCHING BAND」の後援会長に就任した大堀さんには、伊勢湾台風前の中学3年生の時、稲垣教諭の自宅があった名古屋市千種区から33㎞を歩いて知多市の自宅に帰った経験がありました。

大堀さんによると、当時、東邦高校では秋に、主に中学校の吹奏楽部員らを招いて「招待音楽会」を開いていました。大堀さんも知多市立八幡中学校卒業前の2月に参加しました。赤萩校舎体育館で開催された音楽会はスクールバンド演奏によって締めくくられました。「稲垣先生の指揮で演奏されたのは『寺院の前を通る行列』という曲でした。東洋的な雰囲気の曲で感動しました」と大堀さんは語ります。

音楽部は日曜日も練習していると聞いた大堀さんは、その後間もない日曜日、名鉄電車と市電を乗り継いで東邦高校を訪れました。しかし、到着した時には練習は終わっていました。「吹奏楽の練習風景を見させてもらい、稲垣先生にお会いしたくて知多市から出てきました」と事情を話す大堀さんに同情した職員は千種区希望ヶ丘の稲垣教諭宅の住所を教えてくれました。

地理に不案内だった大堀さんはタクシーを利用しました。運転手にポケットの有り金を全部見せ、「どうしても会いたい先生がいます。お金はこれしかありませんが何とかなりませんか」と頼みこみました。運転手は「しょうがないなあ」とぼやきながらも大堀さんを稲垣教諭宅まで送り届けてくれました。

稲垣教諭は「遠い所から良く来てくれたね」と大堀さんを迎えてくれました。その日はたまたま早めに練習を切り上げたことを説明し、「悪かったねえ」と大堀さんの話に耳を傾けてくれました。

大堀さんは音楽会での感動を語り、「どうしても東邦の音楽部に入りたいと思っています」と思いを語りました。稲垣教諭は、部活は勉強との両立でなければならないこと、通学時間のかかる知多からの通学なら相当な覚悟が必要であることを語りました。「朝は一番電車に乗ります。帰宅は夜8時、9時になりますが頑張ってやります」。決意を語った大堀さんに稲垣教諭は目を細めながら和菓子を勧めてくれました。夕暮れが近づいていました。

「両口屋の千なりというお菓子を3つ出してくれました。この時私は、所持金を使い果たしていたので知多まで歩いて帰ろうと決めていました。初対面の先生にお金を借りるわけにも行きません。千なりを平らげると、大堀さんは稲垣教諭宅を後にしました。

以前、親に連れられて栄町(中区栄)まで来た経験だけを頼りに、希望ヶ丘から栄町に出て、市電線路沿いに歩き神宮前へ。そして知多に向かいひたすら歩き続けました。我が家にたどり着いのは朝でした。

「家は大騒ぎになっていました。ただ、近くの駐在所さんが、あの子ならそのうちに歩いて戻ってくるだろうと話していたそうですよ」。大堀さんは苦笑まじりに稲垣教諭宅から自宅まで33㎞を走破した中3時代の冒険談を語りました。

 

NHKコンクールとダブル優勝

「スクールバンド」旗を背にした音楽部。左端が稲垣教諭

全日本吹奏楽コンクールは1943(昭和18)年、戦争の激化により、中断されました。稲垣教諭が東邦商業学校4年生の時でした。生徒たちは軍事工場に駆り出され、稲垣教諭も3年生の終わりには陸軍戸山学校に軍楽隊として入学しました。(第42回参照)東邦商業音楽部の楽器のほとんどが空襲のため消失し、音楽部は事実上消滅しました。

稲垣教諭は戦後の1948(昭和23)年に、母校に戻って教壇に立ち、愛知大学夜間部で社会科教員の資格を取りました。OBとして音楽部の再建にも取り組みました。まだ、社会的にも経済的にも余裕がない時代。再建は容易ではありませんでした。

「チューバ、ユーホニュームなど大きな楽器が7つ残っていましたが、小さな楽器が全然ない。自分の小遣いをつぎ込んで楽器を集め、15人ほどでバンドを編成しての再出発でした」。(稲垣さんへのインタビューで)

楽器は少しずつ買い足されていきました。しかし、満足に練習できる音楽室もなく、放課後の練習はパートごとに分散して行われ、合奏は体育館で行われました。学校周辺の住民からは「騒音」へのクレームもありました。「家に病人がいるから楽器の演奏はやめてほしい」などの苦情が持ち込まれるのは一度や二度ではありませんでした。新聞社に投書する住民もいたほどでした。

戦後の全日本吹奏楽コンクール再開は1956(昭和31)年の第4回からですが、東邦は戦前の第1回から戦後の第12回まで12年連続でコンクール出場を続けました。戦前を第1次黄金時代とするなら第2次黄金時代とも言える東邦スクールバンド黄金時代の到来でした。

東邦高校が戦前から数えると3回目の優勝に輝いたのは1963(昭和38)年11月に岐阜市で開催された第11回コンクール。この年春には待望の音楽室が完成していました。稲垣教諭は1964(昭和39)年4月に発行された生徒会誌『東邦』6号にその感動を書き残しています。

<夢にまで見続けてきたあの優勝旗を手にしたその時は、嘘のように思われ、目頭が熱くなるのを感じた。ただ、嬉しい気持ちでいっぱいであった。特に昨年は、北海道まで出かけて、本校としては最高の演奏をしながらも思いがけない成績(6位)に終わってしまった。その苦い経験の後だけに、まさか優勝出来るとは思いもよらず、せめて入賞(第3位まで)さえできればよいと、気軽な気持ちで大会に臨んだのだが――>

さらに東邦高校はこの年12月に開催された第2回NHK全国学校器楽合奏コンクール高校の部でも優勝に輝きました。

『東邦』6号への寄稿で稲垣教諭は、「吹奏楽も年々盛んとなり、各団体の技術進歩も著しいものが見られるその中にあって、今回のダブル優勝(日本一)は感動ひとしお深いものがある」とも書き残していました。

 

東邦吹奏楽の全日本吹奏楽コンクールでの成績】(1968年『東邦』10号より)

第1回 1940(昭和15)年度 大阪朝日会館 第2位

第2回 1941(昭和16)年度 名古屋市公会堂 優勝

第3回 1942(昭和17)年度 九州福岡中学校 優勝

(戦争により中断)

第4回 1956(昭和31)年度 大阪府立体育館 第3位

第5回 1957(昭和32)年度 東京国際スタジアム 第4位

第6回 1958(昭和33)年度 名古屋市公会堂 第2位

第7回 1959(昭和34)年度 九州八幡市民会館 第3位

第8回 1960(昭和35)年度 大阪フェスティバルホール 第2位

第9回 1961(昭和36)年度 東京台東体育館 第3位

第10回 1962(昭和37)年度 室蘭富士製鉄体育館 第6位

第11回 1963(昭和38)年度 岐阜市民センター 優勝

第12回 1964(昭和39)年度 高松市民会館 第3位

第13回 1965(昭和40)年度 長崎市公会堂 東海第2位

第14回 1966(昭和41)年度 宮城県民会館 東海第2位

第15回 1967(昭和42)年度 東京厚生年金会館 第3位

全国大会連続出場の険しさ

中学・高校6年間の東邦時代を語った中路さん

第11回大会出場メンバー40人は3年生8人、2年生23人、1年生9人。クラリネットを担当した10人の中の1人が2年生だった森庸全(かねまさ)さん(72)です。森さんは中学校吹奏楽では知多市八幡中学とともに名門校の犬山中学出身です。

「稲垣先生は、人の上に立つには2倍、3倍の努力と練習量が必要。特に音楽は量をこなさなければという考えでした」と森さんは振り返ります。森さんは3年生の時は部長を務め、第12回全日本奏楽コンクールに出場、優勝は逃しましたが堂々の3位でした。

第13、14回大会で東邦はいずれも東海大会2位に終わり、全国舞台連続出場の記録は途絶えました。稲垣教諭は『東邦』10号(1968年3月)にその無念の思いを書き残していました。

「敗れたその年は、目の不自由な人が頼りのツエを失ったかの如く、全く暗い日々を送ったものである。一口に全国大会出場とはいうものの、県大会・地区大会と勝ち抜いて、その地区で唯一の団体だけの出場がいかに険しい道であるかは、この2年連続の敗退で思い知らされた感がある」

リベンジに燃えた稲垣教諭率いる東邦スクールバンドは1967(昭和47)年に東京で開催された第15回大会に13回目の出場を果たし3位に輝きました。

カリスマ恩師逝く

亡くなる1か月前の稲垣さんを訪ねた大堀さん

稲垣信哉さんには2017年4月10日にお宅に伺いインタビューさせていただきました。この連載では、まだまだ語っていただきたかった稲垣さんですが、2018年9月24日、お亡くなりになりました。9月26日の朝日新聞に掲載された訃報です。

稲垣信哉さん(いながき・のぶや=東海吹奏楽連盟名誉会長、元東邦高校音楽教諭)24日、肝臓がんで死去、91歳。葬儀は26日午前10時から名古屋市千種区千種2の19の1のいちやなぎ中央斎場で。喪主は妻敦子(あつこ)さん。

 

稲垣さんが亡くなる1か月前、大堀さんは恩師である稲垣さんを訪ね、東邦高校音楽部時代の思い出や卒業生たちの活躍ぶりなどを語り合いました。「稲垣先生は、吹奏楽はオーケストラに近づくべきだという考えでしたが、出張演奏を頼まれればよほどのことがなければ引き受け、パレードではいつも部員たち先頭に立って歩きました。怠け者はきらいで、軍隊式ではあったが優しかった。稲垣先生を語らずして東邦音楽部は語れません」。大堀さんは残念そうに恩師を偲びました。合掌。

(法人広報企画課・中村康生)

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