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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第50回

風雪の40年と本館壁画

1964

更新⽇:2019年2月26日

新入生迎えた大壁画

赤萩校舎の本館西側に完成した壁画(1965年卒業アルバム)

東邦高校普通科19回生の岡島和幸さん(69)(日進市)が入学したのは1965(昭和40)年4月。赤萩校舎では木造校舎は姿を消し、鉄筋校舎が立ち並んでいました。岡島さんたち新入生を迎えたのは5階建て本館の西側に描かれた大壁画でした。下段に働く人たち、子供を抱いた母、中段から上段にかけて笛を吹く若者、運動する学生、勉強にいそしむ若者たちが描かれ、右上には二つの太陽を配した雄大な構図です。

壁画は前年5月に完成していました。1964(昭和39)年5月7日「中部日本新聞」(現在の中日新聞)に掲載された「日本最大の外壁画 東邦学園新校舎 勤勉、希望など表現」という見出しがついた記事の抜粋です。

<近く完成する東邦学園(東区赤萩町)新校舎の西側道路に面した外壁に6日、立派な壁画が出来上がった。制作は二科会の安藤幹衛画伯で、縦14㍍、横24㍍にも及ぶ大きなもの。名古屋ではもちろん、日本でも最大の壁画で、学校の外壁画としてもこれが初めてだと言われる。

安藤さんが東邦学園の理事長・下出貞雄氏から壁画制作を依頼されたのは昨年4月。「新校舎に一つ壁画を」ということで、テーマ、題材などいっさいが安藤さんに一任された。すぐ構想をねり、下絵を描き上げたのが昨年暮れ。今年の3月から壁画作業にかかった。

壁画といっても、これは直接筆をとるというのではなく、外壁のコンクリートにモザイク(新装品のガラス・タイル)を張り付けたもの。安藤さんの指導で、数人の作業員が、それぞれの色、線に応じモザイクを割り、ひとつひとつ張り付けてゆくわけだが、細かい仕事に加えて、雨の日も多かったため、意外に手間取り、作業開始1か月でやっと完成した。

 安藤画伯の話 テーマは〝青年よ、大志をいだけ〟が狙い。外国生活から帰った時、一番痛感したのは、日本の若者が島の中にだけに目を向け、余りにも外を知らなさ過ぎるということだった。だから、もっと世界に目を向け、海外雄飛をという狙いで描いた。外壁画は初めてだが、幸い下出さんから全てをまかせてもらったので、思う存分仕事ができた。これが近代建築の冷たさを救い、暖かく血の通ったものとなれば本望だ。>

壁画は名古屋市民の話題を呼び、テレビ、新聞でも紹介され、観光バスが停車し、ツアー客たちがガイドの説明に聞き入る光景もありました。(東邦学園50年史)

新入生としては最初に壁画と対面することになったのは岡島さんら19回生たちでした。岡島さんは「学校としてはああした壁画は珍しかった。僕は校歌の歌詞を表現しているのかなと思いました」と振り返ります。

鉄筋校舎化最後となった本館建設

屋根に日よけを覆ったプレハブ職員室。右は3 号館

本館は学園創立40周年記念事業として建設されました。戦後、多くの私学では生徒急増期に対応して、木造校舎からコンクリート校舎への建て替えや増築が進められていました。東邦高校では、職員室や事務局が入る本館建設は後回しにされ、生徒たちのための教室校舎建設が優先されました。

 

1957(昭和32)年4月 1号館竣工

1958(昭和33)年10月 東山総合グラウンド竣工

1960(昭和35)年6月 2号館竣工

1963(昭和38)年5月 3号館竣工

1964(昭和39)年5月 本館完成、東山プール完成

 

1964年5月12日、本館完工式と壁画除幕式が行われました。理事長の下出貞雄は、記念パンフレットで、「馬鹿正直」という言葉も使いながら、本館建設にこぎつけるまでの道のりを振り返っています。

  

 <率直に申し上げて私自身、只今遂に学園本館の完成を見ることが出来たかと月並みな感慨無量の思いでいるとともに、私を代表とする東邦マンはなんと馬鹿正直であったことよと苦笑する始末です。

去る7年前の昭和32年春、私学振興のたけなわならんとする頃、他の私学が管理部門たる本館建築を真っ先に着手せられるのをよそ目に、本学園はまず、教育の場である生徒の学舎を第一にと、全館教室の1号館の建設に着工。その後、都市計画の関係やら、隣接地の買収やら、東山グラウンドの新設等、諸々の困難な条件を克服後も、2号館、3号館と引き続き一般教室を主とする建設に力を注ぎ、ようやく昨年、創立40周年を期として、ここにご覧の如き威容ある新館の完工を見るに至ったわけであります。>

 

壁画に託した夢と「馬鹿正直」の弁

名城線久屋大通駅に描かれた壁画「人間賛歌」

下出理事長の記念パンフでの文章はさらに続きます。下出は資金難にあえぎながらも、生徒たちが学ぶ環境整備を何よりも優先させて本館完成にこぎつけた感慨と、安藤画伯に託した思いを綴りました。

 

 <しかし、その間に世情は高校急増期に入り、一昨年(1962年)来、高校生急増に協力する学園には一般教室建築に限り特別融資及び助成をするという関係当局各位のご厚意ある教育の施策が打ち出されたのですが、残念無念ナリ!〝お前の学園は本年度は教室の増やし方が少ないではないか〟のお叱り。〝今頃何を本館ぞや〟とのおつもりか?無心にも子供にはまずミルクを与える母親のつもりでいた教室優先の本学園の方針と実行は過去のことよと、特別融資の恩恵に浴すこと僅かな対象のみとなり、このたびの殆どの部分の建築資金は、法人保証の民間金融機関の貸付や、ご父兄のご援助により完工をみたのであります。

次に西側壁面を飾る雄渾無比の安藤画伯(二科会)のモザイク(ガラスタイル)の壁画でありますが、全面積約200平方メートル(70坪)。この壁画の計画は、数年前、やはり壁画ブームの叫ばれる以前からあったもので、大都会の中心地に近い本学園に勉強する男子高校生が、色彩感に乏しい灰色の学園生活に沈み込まないよう、身につけたダイナミックなたくましい躍動感を現したく、また、広くは名古屋文化向上の一翼を、この機会に果たしてもらえれば望外の幸せと思いました。いささか独善馬鹿正直のそしりを受けるかも知れませんが、地元の中堅画家である安藤先生に全くのサービス精神でお書き願ったものです。

そんな意味で、私は新しき喜びにひたりながら、御援助頂いた多くの皆様のご支援に重ねて御礼を申し上げたく思いつつも、馬鹿正直は損をみるという例え話は、教育事業の世界でもそうなのかなあとことさらに感慨ひとしおにふけっているのであります。>

 

下出理事長はこの完工式直後に倒れ、9月26日に心臓性喘息のため42歳という若さで逝去、学園に衝撃が走りました。学園運営にかかわる下出貞雄の公式見解表明はこれが最後となりました。

押し寄せた団塊世代 奥田瑛二さんも

19回生卒業アルバム(1968年卒)の奥田瑛二さん(中央)

戦後の1947(昭和22)年から1949(昭和24)年生まれは団塊世代と呼ばれています。1949年生まれの岡島さんもその世代です。団塊世代が高校に押し寄せ、生徒数が急激に増加するのは1963(昭和38)年からと言われていましたが、東邦高校では一足早く急増が始まりました。1960(昭和35年)年6月、「東邦学園前」とも呼ばれた地下鉄千種駅の開業、国鉄(JR)千種駅との総合駅化など交通アクセスの良さが他校に比べ群を抜いていたこともありました。

志願者は1961年1501人、1962年2224人、1963年3097人、1964年3903人と増加。1500人を突破した1960年からは愛知県私学ではこの時期、志願者数トップを記録し続け、1963年からは学内施設だけでは入学試験ができなくなり愛知大学名古屋校舎を借用して試験場を確保しました。

岡島さんが入学した1965年も3832人の志願者があり、商業科と普通科の比率にも大きな変化が現れました。岡島さんが入学する前年の1964年の在校生は、商業科の1296人に対して普通科が1434人となり、初めて普通科が商業科を上回りました。1965年は普通科1809人、商業科1296人とその差は一段と開きました。

東邦会発行の同窓会名簿によると、岡島さんら19回生の3年生はA組からT組まで20クラスありました。商業科はA組からG組までの7クラス347人で、普通科はH組からT組までの13クラスに666人。

岡島さんはN組ですが、L組には春日井市から通学していて、卒業後は俳優となった奥田瑛二さん=本名は安藤豊明(とよあき)さん=もいました。奥田さんはNHK連続テレビ小説「まんぷく」のヒロイン安藤サクラさんの父親で自身も出演。東邦学園70年史には、「師・天知茂先生のこと」という思い出を寄稿し、ニヒルな二枚目俳優として知られた天知茂さん(本名・臼井登、東邦商業学校21回生)にあこがれて師事した経緯を書いています。

19回生卒業アルバムのL組ページには級友たちと肩を並べた制服姿の奥田さんの姿がありました。

生徒たちを見守り続ける原画

東邦高校特別棟1階廊下に飾られている安藤画伯の原画

岡島さんは、赤萩校舎の壁画校舎の思い出を、「確かに壁画は色彩がカラフルで明るさを感じました。ただ、在学中に壁画の由来とか説明を聞いた記憶はありません」と語ります。

東邦高校は1971(昭和46)年3月、平和が丘に完成した新校舎に移転し、赤萩校舎の歴史は閉じられました。赤萩の校舎跡はオフィスビル街として再開発され、旧校舎の痕跡は残っていませんが、安藤画伯によって描かれた壁画の原画は、東邦学園短期大学(1965年開学)に隣接して建てられた東邦高校校舎の図書館に飾られました。2007年に完成した現在の校舎となってから、原画は正面入り口に近い特別棟1階廊下に飾られ、今もなお東邦高校の生徒たちを見守り続けています。

安藤幹衛画伯(1916~2011)は愛知県知立市生まれ。旧制刈谷中学を経て岡崎師範学校を卒業。小学校教員となりましたが、メキシコ壁画運動などメキシコ絵画の影響を受けて児童美術の教育者としても活動した北川民次(1894~1989)に師事。自身もメキシコに渡り作画活動を続けました。第69回二科展で内閣総理大臣賞を受賞するなど数々の賞を受賞しています。

地下鉄名城線の久屋大通駅には1989(平成元)年の開業とともに、安藤画伯が中部二科会会員らの協力で制作した壁画が飾られています。地上に生をうけたものの生きる喜びを歌い上げた「人間讃歌」のテーマを、メキシコにモチーフをとり制作されました。壁画は名城線右回り、左回りのそれぞれのホームから見る線路側の壁に描かれています。

今から55年前の東京オリンピックの年に赤萩の東邦高校に出現した壁画も、久屋大通駅駅に描かれた壁画同様、安藤画伯の「人間賛歌」のメッセージだったのでしょう。

(法人広報企画課・中村康生)

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