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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第51回

軟式野球部の全国大会初出場

1969

更新⽇:2019年3月18日

硬式野球部の母体となった軟式野球部

初の全国舞台第14回大会開会式での入場行進(軟式野球部史)

 まもなく開幕する2019年第91回選抜高校野球大会。2年連続で30回目の春の甲子園に登場する東邦高校ですが、硬式野球部の華やかな活躍の一方で、地味ながら東邦高校軟式野球部もまた全国大会出場の実績も含めた長い歴史を刻んでいます。

 軟式野球球児たちにとっての全国舞台は2019年で第64回を数える全国高等学校軟式野球選手権大会(日本高校野球連盟主催)です。第1回大会は1956(昭和31)年に「全国高校軟式優勝野球大会」として大阪府の藤井寺球場で開催されました。

 軟式野球部は戦前の東邦商業学校時代の1925(大正14)年にはすでに活動していました。当時の校友会雑誌『東邦』3号には、「大正14年度校友会会計報告」として、野球部に部費18円が計上されたことが記されています。他部では排球部20円80銭、相撲部24円20銭、庭球部39円30銭、水泳部12円94銭ですが、東邦学園「50年史」年表には当時の「野球部」が軟式であったことが記されています。

 さらに1929(昭和4)年4月22日発行の『東邦商業新聞』には「人気の中心野球部 入部希望の新入生沢山」という記事が掲載され、「上手でも下手でも野球だけはやろうと入部希望者が押し寄せるので5年生の桑原君などは1年にも15、6名の入部者があったとにこにこ顔である」とあります。

 そして、『東邦商業学校東邦高等学校野球部史』には、「昭和4年、当時5年生の桑原喜代一君(3回生)や4年生の水野明君(4回生)が熱心に部員を勧誘して設立した軟式野球部が、翌年に硬式野球部として発足したのである」という硬式野球部発足の経緯が紹介されています。

 活動を硬式野球部にバトンタッチした軟式野球部のその後の活動ははっきりしませんが、『東邦高等学校軟式野球部史』(軟式野球部史)には、戦後の軟式野球部誕生について「1950(昭和25)年から1951(昭和26)年の間に同窓会的組織から部への脱皮を図ったのではないかと」と書かれています。

 

東海大会で静岡商破り悲願達成

 硬式野球部の華やかさに対し、軟式野球部の活動は地味でしたが、部員たちは野球を楽しみながら全国舞台を目指し続けました。悲願の全国大会出場を果たしたのは1969(昭和44)年8月に開催された第14回全国高校軟式優勝野球大会でした。毎日新聞の8月8日付名古屋市内版に、東邦高校軟式野球部が全国大会出場の報告のため、朝日新聞とともに後援する毎日新聞の中部本社を訪れた記事が掲載されていました。

 訪れたのは酒井真彦部長、大西一郎監督、3年生の武市清主将、山倉紀和副主将。副主将の山倉さん(卒業後に山下と改姓。故人)は東邦高校、早稲田大学、プロ野球巨人で活躍した山倉和博さんの兄です。

 記事では、大西監督が、東海代表として全国大会初出場の意気込みを語っています。「これまで4度、静岡商と決勝を争い、やっと念願を果たすことができた。それも硬式と同じように最終回の逆転勝ちで、チームの意気は上がっています。一戦一戦全力を尽くし勝ち抜いていきたい」。

 東邦高校では、軟式野球部が悲願の全国大会を決めたこの年、硬式野球部も2年前の1967(昭和42)年に就任したばかりの阪口慶三監督(現在は大垣日大高校野球部監督)のもとで夏4回目となる甲子園大会に出場しました。愛知県大会準決勝の中京戦では0-1で迎えた9回裏、横道政男主将(現在、愛知東邦大学硬式野球部監督)が左翼席に豪快なサヨナラ2点本塁打を放ち劇的な逆転勝利を決めました。〝ミラクル東邦〟はすでに高校野球ファンを魅了していました。

阪口監督の就任と非情の猛練習

県大会優勝旗を持つ横道主将ら硬式野球部(前列中央は阪口監督)

 愛知大学を卒業と同時に母校に教員、硬式野球部監督として戻った阪口監督は就任1年目の苦闘ぶりを1968(昭和43)年3月発行の生徒会誌『東邦』10号に書き残していました。(抜粋)

 「勝負の世界の厳しさをつくづく味わった。それは、この3月まで学生であった者に選手は絶対的な信頼を寄せるかという疑問を抱いていたからだ。だから、2か月先の大会で勝つという作戦を考えるより、選手に監督を一日でも早く信頼させるように持っていくことの方が勝利に導く近道だと信じ、無言の指導をした。選手は私の行動を注視しているから、これを利用しようと思い大学時代に戻り、打ち、走り、守った」

 しかし、夏の大会の前哨戦といわれる県大会1回戦は津島商工に4-5で敗退しました。

 「監督第1戦(大きな大会)はどうしても勝ちたかったが、勝利の女神は微笑まず惜敗した。今になって考えてみると、選手の性格もはっきりわからず、ましてや選手も監督の人柄を知らずにどうして勝てよう。試合後、監督とはこんなにも疲労するものなのか(全身の力が抜けていた)と、身をもって知らされたものだ。

 毎日ノックの雨を降らし、また徹底的に走らせ打たせた。非情と思えたが、精神力で闘い抜く夏の大会にはこうでもしなければ勝てない。合宿も監督と選手の気持ちが通じ合うよう1か月前から始めた。その成果が日に日に現れ優勝ムードとなった。(大学時代優勝したムードと同じだった)」

 戦闘モード全開で挑んだ阪口監督の初陣となった夏の甲子園愛知県大会。東邦は準決勝(5回戦)で中京に0-4で敗れました。新チームで臨んだ秋の県大会も3回戦でまたも中京に2-3で敗れ去りました。

 愛知東邦大学硬式野球部の横道監督は、阪口監督のもとでの3年間を振り返ります。「練習はきつく阪口監督は後に”鬼の阪口” と言われたほど。東から昇った太陽が西に沈むまでと言っていいほどノック漬けの日々でした。同期で40人が入部しましたが、選手として最後まで残ったのは4人だけです。練習が行われたのは今の高校や大学がある東山グラウンドですが、僕の汗と涙はまさにこのグラウンド、キャンパスにしみこんでいます」。

硬式野球部から軟式野球部に移った選手たち

全国大会出場を果たした軟式野球部員たち(卒業アルバム)

 軟式野球部にとって初の全国大会となった第14回全国高校軟式優勝野球大会に出場した主力選手たちは横道監督と同じ1945(1970)年卒の21回生たちです。軟式野球部OB会名簿(2013年現在)に記載された21回生は12人(2人は故人)です。その1人である加古均さん(67)(大府市)によると12人中6人が、阪口監督の指導した硬式野球部からの転部組でした。

 加古さんは副主将を務めた山倉さんとともに大府中学出身。全国大会出場を決める東海予選では場外本塁打を放ち、全国大会後の長崎国体決勝戦でもホームスチール決めるなど活躍しました。2人とも1年生の終わりに硬式野球部を退部しました。

 「阪口監督の就任1年目の時、僕らも1年生。阪口監督の指導は確かに厳しかった。僕もランニングや腕立て伏せ、筋肉トレーニングなどハードな練習に耐えて頑張った。しかし、阪口監督の眼中にあるのは横道君のような最初から目をかけていた特待生選手だけ。準特待生だった僕などはフリー打撃練習の機会は3回しかなかった。いくら頑張っても先はないと思いました」と加古さんは振り返ります。

 一緒に体験を語ってくれた富田一三さん(67)(知多市)も1年生夏に硬式野球部を離れました。中京高校との練習試合中にボールの直撃を受けて聖霊病院に担ぎ込まれたのがきっかけでした。「硬式ボールが怖くなってきてあきらめました。硬式での練習の厳しさは半端ではありませんでした。みんな経験したことですが、のどがカラカラになって、ボウフラの湧いている田んぼの水を飲みました」。加古さんによると山倉さんの退部は突き指での負傷が引き金となりました。

 山倉さん、富田さんは2年生の春から軟式野球部に移りましたが、加古さんが移ったのは夏の大会が終わり新チームに切り替わった秋からでした。「そのまま軟式に入部したら、僕と入れ替わりにレギュラーから弾き出される選手が出ると思ったからです」。加古さんは秋まで、授業後は母校である大府中学校に足を運び、後輩たちの指導にあたりました。指導した選手には山倉さんの弟で、東邦高校に入学して活躍した和博さんもいました。

全国舞台へスクラム

札幌商戦2回裏、東邦はスクイズで3点目(「東邦新聞」76号)

 加古さんら6人の元硬式野球部員たちを迎えた新チームは、キャプテンとなった武市さんを中心にがっちりスクラムを組みました。東山グラウンドで硬式野球部と背中合わせでの練習に明け暮れながら全国舞台出場へのモチベーションを高めていきました。軟式野球部史に掲載されている、初の全国舞台大会出場を実現させた1969年の活動記録です。

 「強力なチームが出来上がった。県予選決勝では最大の難関、強敵中京と対戦した。3回に中京が先取点をあげ、9回表まで3-2と中京がリードした。最終回、東邦は先頭の武市が一塁エラーで生き、続いて山岸は投手前への内野安打で無死1、2塁。8番的田(2年生)が3球目をうまく右中間に打ち、1、2塁ランナーが生還して逆転、東海大会へと駒を進めた。東海大会決勝では、昨年と同じ相手静岡商と対戦したが、見事打ち破って全国大会出場を勝ち得た」

 第14回全国高校軟式優勝野球大会で使用された球場は大阪府富田林市のPL学園野球部グラウンドと藤井寺球場でした。東邦は初戦の2回戦で札幌商を5-0で下し、準々決勝でも仙台商に6-4で勝利しました。藤井寺球場での準決勝で萩商に1-2で敗退。残念ながら決勝進出はなりませんでしたが、ベスト4入りしたことで、10月に開催された長崎国体への出場権を得ました。

 硬式野球部とともに初出場した1964(昭和39)年の新潟国体に次いで2回目の国体出場となった長崎国体。軟式野球部は花巻商業、平安高校を破り決勝に進出。札幌商業に敗れましたが、堂々の準優勝に輝きました。

 一方、阪口監督のもとでは初めて、東邦高校としては4回目となる夏の甲子園出場を果たした硬式野球部は1回戦で富山北部高校に4-6で敗れました。阪口監督は甲子園での初陣を飾ることはできませんでした。

駆け付けた応援団

軟式野球部時代を語った富田さん(左)と加古さん(右)

 「それはうれしかったですよ。硬式のような派手さはないし、あまり注目もされませんでしたが、全国舞台は全国舞台ですから」。加古さんは、第14回全国高校軟式優勝野球大会、長崎国体出場の思い出を嬉しそうに語りました。富田さんも「一番嬉しかったのは家族が新聞を切り抜いていてくれたことです。親たちも本来なら甲子園での活躍を期待していたのでしょうが、地味な軟式野球に移ってからも暖かく見守ってくれていたんですね」と懐かしそうでした。

 軟式野球部としては初の全国大会出場でしたが、加古さんによると学園全体では大きな盛り上がりにはならなかったようです。宿敵である中京に劇的な勝利で予選を突破し、甲子園に乗り込んだ硬式野球部への期待が大きく膨らんだこともあったからのようです。しかし、加古さんによると、軟式野球部の全国大会出場が決まると、それまで限られた数しかなかったバットが新たに揃えられ、一人が1本ずつ選べるようになりました。

 甲子園での応援のようにブラスバンドは来ませんでしたが、応援団が来てくれ、校旗を掲げて応援してくれました。応援スタンドは閑散としていましたが、果たせなかった全国大会出場の扉をついに開け放った後輩たちを応援しようと軟式野球部OBたちも駆けつけてくれました。

 加古さんや富田さんたちより2学年上の19回生で、当時愛知学院大学準硬式野球部員だった岡島和幸さん(日進市)も名古屋から車で乗り込みました。「駆け付けたOBは10人もいませんでした。甲子園とは比べるのは恥ずかしいほど応援席はがらがらでした」。岡島さんはと苦笑まじりに語ってくれました。

 軟式野球部の指導教員は全国大会出場時に監督だった大西教諭、部長だった酒井教諭のほか松島元教諭、可児光治教諭らです。OBたちは酒井、松島、大西、可児教諭のイニシャルを並べた「SMOK(スモーク)会」を作り親交を続けています。

 加古さんは「練習でも監督や部長の先生がグラウンドに顔を出すのは1週間に1度くらい。岡島さんらOB3人くらいがノックをしに来てくれました」と振り返ります。「監督が試合で采配を振るうのはバントのサインくらい。大半は選手任せでした」「あまり細かいことは言わず、行け行けどんどんでしたから」。加古さんと富田さんは懐かしそうに目を細めました。

(法人広報企画課・中村康生)

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