第52回 コラム⑦ 平成元年の歓喜1989

2019年3月22日

48年ぶり優勝を特集した「闘魂」

平成元年の第61回センバツで優勝した東邦高校(50年史から)

 東邦高校が春のセンバツで戦後初優勝に輝いた平成元年(1989年)の第61回全国選抜高校野球大会。48年ぶり通算4回目の栄光に、東邦商業学校草創期の卒業生も含めた東邦関係者の喜びが爆発しました。同年5月、硬式野球部後援会から発行された後援会だより「闘魂」11号は8ページ編集でこの歴史的な大会を振り返り、東邦ファミリーの歓喜を特集しました。(紹介記事は抜粋)

 久野秀正校長は48年間待ち続けた喜びと感動を「東邦野球讃歌」として書きました。

 <君たちのこの優勝にはいくつかの形容詞が冠せられる。「平成」年号の初めての優勝。選抜大会の還暦後初の優勝。延長逆転、サヨナラの優勝。本校にとって戦後初の優勝などなどと、全く君たちは途方もなくどでかい仕事を成し遂げた。

 そこに至るまでにはもちろん、君たちの血のにじむような猛練習があったであろうことは言うを待たない。同時に、勝っても負けても限りなく声援を送り続けて下さった数多くの東邦ファミリーの方々、東邦ファンの皆さまのお陰であることを心に留めておいてほしい>

アマゾン開拓に挑んだ「老東邦健児」からも

吉田さんのアマゾン入植を伝える「東邦商業新聞」(1932年)

 「闘魂」の記事によると、大会期間中の硬式野球部宿舎や東邦高校に届いた激励、称賛の電報やレタックス(レターファクス)は6000通を超えました。ブラジルからは、サンパウロで発行されている邦字新聞とともに「一老東邦健児、元サッカー部主将」と77歳の自分を紹介した東邦商業学校3回生(1930年卒)の吉田泰正さんからの手紙もありました。

 「現地日系1~4世116万人を代表して、東邦部員を遠い地球の裏側からいつも応援しています」

 吉田さんは「語り継ぐ東邦学園史」の第6回「3回生の絆」で紹介させていただいた卒業生です。東邦商業を卒業したのは世界恐慌が勃発した直後。厳しい就職先探しの中で、仕事を求めて大陸の満州(中国東北部)や樺太に渡る卒業生も相次ぎました。1932(昭和7)年4月に発行された「東邦商業新聞」34号に、「アマゾン入植者 吉田泰正君 16日征途に上る」という記事がありました。

 名古屋市守山区に住む吉田さんの兄の長男である吉田正和さんと連絡がつき吉田さんの消息を知ることができました。吉田さんは東邦商業を卒業後、拓殖大学専門部に2年在学しアマゾン開拓をめざしました。しかし、開拓は困難を極めてサンパウロで勤め人となり、日本人女性と結婚し家庭を築きました。野球少年だった正和さんが高校1年生の時にはグローブを送ってくれました。1974(昭和49)年4月に42年ぶりに帰国した後も何回か帰国し90歳を迎える前にサンパウロで永眠したといいます。

 「叔父は大きな夢を追い求めてブラジルをめざしたのでしょう。経済的に厳しかった当時は家を出ざるを得ない二男という境遇もあったのかも知れません」と正和さんは語ってくれました。

決戦の朝、戦前初優勝した兄の墓に

初優勝の大旗を受ける河瀬主将

 喜びの声の中には、東邦商業が1934(昭和9)年の第11回大会で初優勝を飾った時の主将だった河瀨幸介さんの弟である澄之介さんの寄稿もありました。

 11回大会の時、河瀨さんの実家が甲子園に近かったこともあり、東邦の甲子園出場が決まってから家中が大騒ぎとなり、連日家族で応援に繰り出しました。この時の優勝決定戦の相手も平成元年と同じ地元大阪の強豪である浪華商業でした。

 <零-零のまま延長戦となり、10回表、浪商の投手納屋にランニングホームランを打たれました。浪商はこれで勝ったと思ったでしょうが、なかなか。その裏、東邦は四球とヒット、相手のエラーでランナー2、3塁。次打者4番村上の左中間安打で2者生還の逆転優勝。全く今回の優勝と同じような経過でした。

 (平成元年の)優勝戦当日は、朝早く起きて、近くの寺の、両親と昭和19年に戦死した兄幸介の墓にお参りしてから甲子園に行きましたが、あの劇的な逆転勝利は、きっと兄も応援していてくれたからだと思っています。それにしても全く一喜一憂、気疲れのひどい優勝戦でした。が、それだけに勝った瞬間のあの(11回大会以来)55年ぶりの感激はいつまでも忘れることができないでしょう。おめでとう。東邦高校!また夏に甲子園で目にかかりましょう>

 河瀬主将ら東邦商業の甲子園での活躍の足跡となる新聞の切り抜きや入場券などは、父虎三郎さんによって丹念にアルバムに収められ、平成初優勝の前年、澄之介さんから東邦高校に贈られていました。「語り継ぐ東邦学園史」の第10回から第14回を中心に掲載している「甲子園初出場」もこのアルバムや、澄之介さんへの取材がベースとなりました。

 東邦商業から慶応大学に進学し野球を続けた河瀨さんは、卒業後間もなくして陸軍に入隊。高射砲兵として満州、ニューギニアを転戦し、1944年11月に戦死しました。「河瀨幸介」の名前は東京ドームにある野球殿堂博物館の戦没野球人一覧のモニュメントに刻まれています。

母校に戻った優勝旗に涙した前監督

戦後初の19回大会での優勝旗返還。左が近藤副主将

 戦後、選手、監督として東邦野球の復活に情熱を注ぎ、阪口慶三監督にバトンを引き継いだ近藤賢一さん(元東邦高校教諭)も万感の思いを寄稿しています。

 東邦は戦前最後となった1941(昭和16)年の第18回選抜大会で優勝。戦禍の中、赤萩の東邦商業学校で守り抜かれた紫紺の優勝旗は、戦後の復活大会となった1947(昭和22)年の第19回選抜大会開会式で返還されました。近藤さんも副主将として優勝旗とともに入場行進しました。

 <校歌とともにセントポールにするすると揚っていく校旗。それに私の人生がある。戦前、最後の選抜優勝となる昭和16年。戦後、復活第1回の昭和22年の入場式。そして今、平成元年4月5日の優勝。この甲子園原頭に翻る緑の旗は、私の今までの人生に大きな夢と勇気を与え続けてくれたのだ。さらにこれからの後半生の生きることへの大きな支えともなってくれる旗なんだ。私の頬にはとめどなく涙が落ちた。

 4月6日、桜の花びらの舞う校門を紫紺の優勝旗は42年ぶりに帰ってきた。私たちが返しに行った優勝旗。今のこれは10年ほど前、新調されたものであるが、ずしっとした重々しい感触からは汗と涙の永い伝統が伝わってくる。優勝旗の向こうに阪口監督の晴れ晴れとした笑顔がある>

「東邦野球は障害ある息子の生きる力」

上宮に劇的な逆転サヨナラ勝利での平成元年優勝

 東邦球児たちと同世代で、身体に障害がある息子を持つ川崎市の母親からは、便せん5枚の手紙が届きました。小学校、中学校を名古屋で過ごし、3年前に転勤のため川崎市に移ったとのことで、母親は、甲子園での熱戦をテレビで応援し続けた息子にとり、「東邦は命であり、生きていく力なのかも知れません」と書いていました。

 <優勝おめでとうございます。息子のあまりの熱心な応援ぶりと、野球の大好きな姿を見ていてペンを取りたくなりました。この春、養護学校高等部3年に進級した息子は甲子園の球児たちと同じ年齢です。身体障害があるため、好きな野球は私とキャッチボールくらいしか出来ません。歩行が少し困難で手にもマヒがあります。名古屋で育ったせいか毎日毎日、名古屋に帰りたいと言っています。

 出場校が決定してから大会が始まる日まで、毎日指折り数えてカレンダーを一日一日消していきました。東邦が試合をする時は食事もできないくらいになります。テレビから流れる東邦高校の応援団に合わせてメガホンで大声をあげて応援しています。ピンチになると息が詰まるかと思うくらいに心臓がドキドキし、激しい音を立てています。

 テレビの画面に向かって山田君に声をかけてみたりと、家の中は甲子園の東邦応援団の場所そのものなのです。自分はやれないけど、自分が選手になってやっているような真剣な姿を見ていると、普通の子供だったらと、かわいそうになります。

 (準優勝に終わった)去年は悔し涙を流し、そして今年はうれしくて声をあげて泣いていました。高校生になる息子が、他人がやる野球のことでこんなにも泣けるのかと不思議な気もしましたけど、東邦高校野球部は息子にとって命なのかもしれません。生きていく力なのかもしれません>

(法人広報企画課・中村康生)

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