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第53回

コラム⑧ 函館からの祝福メール

2019

更新⽇:2019年4月12日

函館オーシャンに加わった元東邦商業V球児たち

創部113年目の「函館太洋倶楽部」を生んだ函館市

 東邦高校が平成最後の甲子園で30年ぶり5回目のセンバツ優勝を決めた4月3日夜、函館から「優勝!おめでとうございます!」というメールが届きました。社会人野球チーム「函館太洋倶楽部」前部長の津國和男さん(66)からでした。

 

 東邦学園 中村康生 様

 ご無沙汰しておりましたが、春のセンバツ、優勝、おめでとうございます! 猪子さんも、さぞかし喜んでいるものと思います。

 函館太洋倶楽部も創部113年目に入りますが、東邦高等学校野球部に負けないよう、頑張って参ります。今後ともよろしくお願いいたします。 函館太洋倶楽部 津國和男

 

 函館太洋倶楽部は1907(明治40)年)に創部された日本で最も古い社会人野球チームです。「海原の如く前途洋々たれ」との願いが込められた「太洋」は函館市民からは「オーシャン」の愛称で呼ばれました。「函館市史」によると、オーシャンは都市対抗野球大会には1928(昭和3)年の第2回大会から1954(昭和29)年の第25回大会まで北海道代表として15回の全国大会に出場。戦前は来日した全米選抜軍と対戦した全日本の主将も務めた名捕手久慈次郎らも在籍しました。

 戦後、オーシャンで活躍した選手の中に、戦前の東邦商業でセンバツ優勝経験がある3人がプレーしていた時期がありました。元東邦球児たちの足跡を追い、津國さんと連絡を取り、函館を訪れたのは2016年5月でした。

 

戦後の黄金時代支える

1951年、帯広市営球場での猪子さん(前列中央。同右端は辻さん)

 甲子園での優勝経験のある3人は、1934(昭和9)年の第11回大会優勝の片岡博国さん、1939(昭和14)年の第16回大会優勝の猪子利男さん、1941(昭和16)年の第18回大会優勝の大浅達夫さんです。片岡さんは1947(昭和22)年、猪子さん、大浅さんは1948(昭和23)年に入部していました。

  東邦商業の元球児3人は戦後の函館オーシャンの黄金時代を牽引しました。津國さんは当時の新聞記事を探し出してくれました。1948年5月3日の北海道新聞に掲載された、球春の訪れに合わせたオーシャンの戦力紹介記事です。(抜粋)

 <今春の太洋クラブは投手に服部(法大出)、遊撃猪子(東邦商業・南海出)、外野に飯塚(立大出)、大浅(東邦商出)、山下(法大出)と新鋭5選手を加えて攻守ともにチーム力は強化された。遊撃に入った猪子は攻守、好打の持ち主であり、太洋のトップバッターとして申し分がない>

 同じ紙面には5月2日に行われた試合結果として函館太洋が今泉産業を7-4で下した記事も掲載されていました。トップバッターの猪子(ショート)は4打数4安打、4番の片岡(キャッチャー)は3打数1安打(2塁打)です。

 1949(昭和24)年8月11日の記事によると、後楽園球場での第20回都市対抗野球大会で、オーシャンは初戦で日本生命に延長14回、10-11で惜敗。1番猪子は5打数1安打(2塁打)、レフト2番の大浅は6打数1安打でしたが、4番片岡は7打数5安打(3塁打2本)と攻撃の中心となりました。同じ紙面には、息詰まる熱戦を伝えるラジオの実況中継を聞こうと、函館市民が市内各所のラジオ店に群がる様子が大きな写真付きの記事で紹介されています。

プロ野球出身のプライド

「函館太洋倶楽部」を紹介するオーシャンスタジアム展示コーナー

 3人のうち早稲田大学、名古屋鉄道管理局などを経てオーシャン入りした片岡さんは、1950年のパリーグ発足とともに毎日オリオンズに入団。選手引退後も阪急ブレーブズ2軍監督として若手選手の育成に努めました。大浅さんもやがて東洋高圧北海道に移りました。猪子さんは1953(昭和28)年まで6年間オーシャンでプレー。その後も函館に残り、市内の塗装店で仕事を続けました。

 猪子さんは一宮市出身。東邦商業時代は甲子園には先発メンバーとして春夏4回出場しました。第16回大会で東邦が2度目の全国制覇を成し遂げた時、チームは5試合で59得点、73安打で打率3割5分8厘という球史に残る記録を残しました。遊撃手で俊足の猪子さんも他のナインとともに優秀選手賞に輝きました。

 卒業後は、プロ野球が職業野球といわれた当時の南海軍に入団。1942(昭和17)年の犠打33は、1965(昭和40)年に近藤昭仁(大洋)が41犠打に塗り替えるまでプロ最高記録でした。戦争の激化でリーグは中断し、戦後、知人の誘いでオーシャンに入部。都市対抗野球には3回出場しています。

 プロ出身の猪子さんのプレーは、函館市民を魅了しました。津國さんの計らいで同席してくれた元オーシャン監督で、猪子さんと一緒にプレーをした経験がある辻春信さんが懐かしそうに猪子さんの思い出を語ってくれました。

 「俊足でアクションも派手。テレビがない時代ですから、とにかく格好よく見えました。勝つために、お客さんを楽しませるために野球をやるという姿勢は一貫していました。敗戦が続くと、後輩たちに、いったい何をやっているんだとカミナリを落とすこともありました。プロ経験者として、ぶざまな姿は見せられないというプライドがあったのでしょう」と振り返ります。

 辻さんによると、猪子さんは、肩とひじの衰えをカバーするために、遊撃の守備では深く守り、打球に猛然とダッシュし、体の動きのままに送球。打席ではアウトコースにしぼって右に押し出す打法が目立ちました。「手首が返らないからそれしか打ちようがなかったのでしょうが、見事なバットさばきでした」と辻さんは言います。たまにエラーをすると、「俺はだめだ。交代だ」と真っ直ぐベンチに向かう傍若無人ぶりも見せたといいます。

 塗装店で仕事をしていたこともあり、ペンキでグリーンに塗った〝緑バット〟を持ってグラウンドに現れるなど茶目っ気を発揮することもありました。

 

「市民に夢と感動与えた快男児」

豊田泰光さんから日本プロ野球OB会会員証を贈られる猪子さん

 オーシャン時代の仲間たちに、猪子さんから「OB会をつくって、野球好きな子どもたちを育てよう」と声がかかったのは、オーシャンが1997(平成9)年に創立90周年を迎えようとしていたころでした。「函館太洋倶楽部OB会」が誕生し猪子さんは初代会長に就任しました。

 しかし、1998年5月26日、猪子さんは腹部動脈瘤破裂のため77歳の生涯を閉じました。「猪子利男さんをしのぶ」と訃報を伝えた北海道新聞は「派手なプレーで人気 最後まで後輩たちを激励」という見出しで大きく扱いました。

 追悼記事には、函館市職員で函館太洋倶楽部部長だった津國さん(当時45歳)の「野球に対する厳しい姿勢に接し、自分たちは甘かったことを反省させられた。猪子さんから『うまい』と言ってもらえる選手はなかなかいませんでした。オーシャン黄金時代を支えた人を亡くして残念です」というコメントも掲載されました。

 機会あるごとにオーシャンの指導にあたっていたプロ野球解説者の豊田泰光さんのコメントも掲載されました。「日本野球の技術、精神の現状を嘆いておられました。自分がプロ野球選手だと言っても孫が信じてくれないからと、ぼやいておられましたが、昨年夏、日本プロ野球OB会の会員証をお渡ししたらとても喜んでくださいました」。

 函館市文化・スポーツ振興財団の広報誌も「函館ゆかりの人物伝」で、「戦後の太洋(オーシャン)倶楽部を牽引し、多くの市民に〝夢と感動〟を与えた快男児」と猪子さんを紹介しました。

「涙流して練習に励んだたましい」

猪子さんの思い出を語った津國さん(左)と辻さん

 猪子さんは1994(平成6)年7月に発行された『東邦商業学校・東邦高校野球部史』に「野球で培ったたましい」という寄稿をしていました。甲子園での優勝、プロ野球(南海)時代に対戦した巨人戦、阪神戦など3年間のプロ時代の日々、後楽園球場での都市対抗野球など陽の当たる華やかな野球人生を振り返る一方で、「補欠」を経験したのが唯一、東邦商業野球部時代だったと書いています。(抜粋)

 <練習が終わり、真っ暗になった外野の塀にもたれて、いつまでたっても上手くならない、自分はいつになったら試合に出られるようになるのかと涙が止まりませんでした。親(母親しかおりません)の顔や後援者の顔が目に浮かび、いつまでもいつまでも泣いておりました。このことは、生涯に二度とない思い出と、今まで誰にも打ち明けませんでしたが、大事に、大事にそっと抱いていたいと思います。

 甲子園大会出場のため、名古屋駅前で壮行会がありました。大勢の人々が激励に来てくれました。すると突然、大きな声で「補欠、補欠」と呼ぶ人がありました。誰のことかと思いましたら、私に、「名前を呼んでほしかったら早く選手になれ」と言われました。この言葉がその後の、いや今でもどれほど私の励ましになったことでしょう。私は常に、商売は儲けなくては駄目、勝負は勝たなければ駄目だと言って居ります。過激すぎるでしょうか。でもこれが、涙を流して練習に励んだ者の意地、いや、たましいです>

 函館市在住の猪子さんの長女米川美智代さんによると、米川さんが、猪子さん野球選手としての活躍ぶりを知ったのは小学生の時でした。オーシャンファンだった担任教師が、授業中に「お前のお父さんはすごく足が速かったんだぞ」と話してくれたそうです。

 「父が東邦商業で優勝した時、名古屋をパレードしたこと、プロ野球をやっていたことの自慢話は聞いていましたが、どれくらいすごいことだったかは、亡くなった時、北海道新聞に大きく報道されるまでよく知りませんでした。新聞は今でも家に飾っています」

 家族は棺に猪子さん愛用の竹製バットを入れて猪子さんを送りました。函館の市民球場「オーシャンスタジアム」には、「函館太洋倶楽部のいわれ」とともに、猪子さんがプレーした当時のオーシャンのユニフォームも展示されていました。

(法人広報企画課・中村康生)

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