第54回 東邦学園短期大学の開校 1965

2019年5月11日

新聞報道された新設計画

東邦短大新設計画が紹介された「中部日本新聞」

 「大学、短大 盛んな新増設計画 明春開設めざす五校 進学者の急増に備える」。1964(昭和39)年8月25日「中部日本新聞」(現在の中日新聞)は東邦学園の短大新設計画を中心に、愛知県内での大学、短大の新増設計画を伝えました。以下、記事の要旨です。

 <昭和41年度から始まる大学生急増期に備えて、全国的に大学、短大の新、増設計画が多いが、県下でも明春スタートをもくろんでいるところが短大だけで5校もある。これは例年のほぼ2倍の数である。年々増える大学進学希望者、それに高校生が減少しいくので、私立高校が施設を拡充して短大開設を目指しているのが特徴で、来春はなかなかの短大ラッシュになりそう。

 県や私学関係者から調べたところ、現在、東邦高校(坂倉謙三校長)は経営学科、または商学科(定員150~200人)の短大を千種区猪高町の平和公園近くに作る計画で、一部校舎の建築を始めている。同校はもともと商業学校だったが、最近は普通科の生徒がどんどん増えており、今春の新入生は普通科600人、商業科400人。年々大学進学率が伸びているので、近い将来、4年制大学に昇格させたいという>

 記事では他に短大新設を計画している学園として、市邨学園、同朋大学、藤ノ花女子高校、守山女子商業高校の動きを紹介しています。「東邦短大の建設地。右が建設中の校舎」という写真も掲載されました。ただ、この写真については、当時の東邦高校校長で、短大開校後は副学長、学長を務めた坂倉謙三が、「記事掲載時はまだ地鎮祭前で、建設中の校舎とあるのは高校プール横の部室を兼ねた木造校舎」と記事の〝勇み足〟を指摘しています。(東邦学園短大後援会誌『邦苑』7号に掲載された坂倉の寄稿「東邦学園短期大学の想い出」より)

悲しみと慌ただしさの中で

背後に丘陵地の山並みが迫る短大校舎(第1回卒業アルバム)

 開設準備が慌ただしく進む学園に大きな衝撃が走りました。心臓系の病に伏していた下出貞雄理事長の急逝です。1964年9月26日午後、東邦高校ではPTA委員会が始まったばかりでした。出席していた坂倉校長のもとに事務からの悲報が飛び込んできたのです。坂倉は出席者に告げると慌ただしく下出宅に走りました。

 43歳という若さで逝った下出貞雄の学園葬は短大申請の提出期限が9月30日に迫る中、9月29日、覚王山日泰寺で執り行われました。「東邦新聞」55号(1964年10月30日)は、音楽部の奏でる葬送曲の中、全校生徒が参列した悲しみの葬儀の様子を伝えました。

 <前代理事長下出義雄先生が93歳の高齢でお亡くなりになったのに対し、貞雄先生は43歳の短命であった。下出3代、40年にわたる東邦学園も、今、その3代目理事長を亡くし、悲しみとショックの中に大きく変化しようとしている――>

 東邦高校で予定されていた40周年記念行事がすべて中止され、中間テストも3日間延期となりました。

 短大の1965年4月開設に向けた申請書が文部省に提出されたのは9月30日午後4時。申請を済ませた実務担当者は翌日の10月1日、東京オリンピック開幕を目前に開通した新幹線に初乗りして名古屋に帰りました。

分担して高校訪問

小津ゼミの学生たち(現在のB棟玄関前)

 戦後、多くの旧制専門学校が新制4年制大学へと転換を図りました。名古屋でも名古屋専門学校が名城大学に、南山外国語専門学校が南山大学へと生まれ変わるなど相次いで新制大学が誕生しました。一方、新制大学としての設置基準を満たさなかった学校などは短期大学として1950(昭和25)年に発足しました。

 しかし、短大は暫定的な制度として発足したにも関わらず、4年制大学に比べて経済的負担が少ない、短期間に実際的な専門職業を受けられるなどの理由で著しい発展を遂げました。このため、1964年には学校教育法の改正によって、短期大学は、恒久的な制度として高等教育制度の中に位置づけれました。

 文部省調査によると、1950年に149校だった全国の短期大学は1964年には339校に増加。東邦学園短大が開校する1965年にはさらに30校増えて369校に達しました。短大生数は1950年の1万5098人が1965年には14万7563人と15年間で10倍近い増加となりました。

 坂倉の「東邦学園短期大学の想い出」によれば、1965年2月1日、坂倉は新理事長に就任した下出保雄(貞雄の弟)、短大学長就任予定の隅山馨とともに上京し、文部省から短大認可の書類を受け取りました。商業科、男女共学、入学定員150人の「東邦学園短期大学」の誕生が正式に認められました。

 2月初旬と言えば、既に高校3年生たちの進路はほぼ確定していた時期でした。東邦学園では教職員が手分けして生徒募集のため愛知、岐阜、三重県の高校訪問に奔走しました。 

 東邦高校教員から短大創設メンバーに加わった元学長の原昭午さんは西三河地区の高校を回りました。「分担地域の高校だけでなく、その地域に住む進路指導の先生の自宅にも足を運び協力をお願いしました。限られた募集活動期間でしたが、知名度のある東邦高校がバックにあったことは大きかった。それがなかったら短大の開学はなかったと思います」と原さんは振り返ります。

 原さんは名古屋大学文学部史学科を経て同大大学院文学研究科博士課程を修了。「加賀藩にみる幕藩制国家成立史論」(1982年)で博士号を取得しています。「東邦高校で講師を務めていましたが、貞雄先生が私の学歴に目をとめ、大学教員の資格がありそうだと判断したのでしょう。開校準備役を命ぜられました。貞雄先生というリーダーを失った中での開校準備でしたが、みんな、何としてもこの難局を乗り切ろうと、保雄理事長のもと、全力でそれぞれの役回りを果たしました。そんな強い気持ちがなければ乗り切れなかったでしょう」と語ります。

〝山奥の学校〟へ学園バス

通学の足として運行された学園バス

 学長には東邦商業学校校長、金城商業学校校長も務めた隅山馨、副学長には東邦高校校長から転じた坂倉謙三が就任しました。開学式は4月22日に、入学式は翌23日に行われました。1期生は96人。61人が東邦高校出身、他の高校出身者が35人(女子5人)でした。

 県立熱田高校出身の1期生、長尾博徳さん(72)(豊田市)は「新入生たちの初顔合わせは扇形校舎の階段教室で行ったと思います。東邦高校出身者は別として、残る35人は高校も年齢もばらばら。私は現役入学でしたが、浪人や社会人経験を経たと思われる入学者も多かった。相手が年上のように見えるため、気楽に話しかける雰囲気ではなかった。これでまとまりがつくのか不安でした」と言います。

 平和公園の奥、東邦高校野球部の練習場でもある総合グラウンドを見下ろすように建てられた東邦学園短大。開校当時の通学の足は、1963年(昭和38年)4月1日に 開業した地下鉄東山線の本山駅か、市バスの終点である猫洞から歩くしかありませんでした。雨が降れば靴は泥にとられてしまう日々もありました。

 やがて、本山から学校まで学園バスが運行されるようになりました。長尾さんが開いてくれた卒業アルバムには、立ったまま乗車する学生たちで混み合う学園バスの写真も収められていました。

 〝山奥の学校〟を象徴するようなエピソードもあります。開校2年目に赴任し、長尾さんのゼミ指導教員でもあった小津昭司講師(後に教授)が、短大同窓会誌に掲載され、ホームページにも転載されたインタビューで次のように語っていました。「雪の日に、研究室から外を見ると、運動場(現在の東邦高校校庭)が一面真っ白だった。それがいきなりザーっと黒くなった。野ウサギが何百羽と走っていました。今の学生に言っても誰も信用しないでしょうが」。

 長尾さんは熱田高校時代の3年間、バスケットボール部の活動に打ち込みました。「受かるだろう」と思っていた京都の私大受験に失敗。名古屋市南区にあった父親の経営する自動車部品製造工場が豊田市に工場建設を計画するなどお金がいる時期でもあったため、浪人は許されない状況でした。「新しくできる短大があるがどうか」と進路指導の教員に勧められたのが東邦学園短大でした。4年制大学に比べてたら学費負担も少ないこともあって長尾さんは東邦短大受験を決めました。入学後、同期生たちの中には長尾さんと同様に、中小企業の後継者的な立場の仲間たちが多いことも次第に分かってきました。

 

役だった実務教育

東邦学園短大時代を語る長尾さん

 東邦学園短期大学の掲げた教育目標は「実務教育と人間教育」でした。東邦商業学校時代から、独自の商業教育を打ち立ててきた東邦学園ならでは教育方針でもありました。

 ただ、4年制大学と違って、短大での学生生活2年間はあっという間でした。長尾さんは卒業後、父親の経営する長尾工業に勤務するまでの4年間、豊田市にある自動車関連部品工場に就職していました。配属されたのは経理課の原価計算係。パソコンが普及し始めたころで、経理課の隣に電算課できました。長尾さんはそれまで手書き、電卓に頼っていた原価計算の仕事を、電算機にデータを持ち込んで処理するシステム化に取り組みました。

 「短大の経営コースでゼミ担任だった小津先生は中小企業診断士の資格も持っていて、授業は実践的でした。スパルタ的な英才教育とでもいうか、私も含め、中小企業の跡取り息子の学生たちにはとても役立つ内容でした。就職して手掛けた原価計算の電算処理の仕事も、小津ゼミでの教えがあったからこそです」と長尾さんは語ります。

 長尾さんの卒業アルバムには経営、事務、会計、貿易の4コースでのゼミ授業の写真が紹介されています。長尾さんらが所属した経営コース小津ゼミの寄せ書きには「10年先を絶えず考えること」という小津講師の書き込みもありました。

 短大開校とともに助教授に就任した原さんは、歴史学や社会学など教養科目を担当しました。「政府の貿易振興政策もあったし、名古屋の企業も海外にどんどん進出にしていた時期。貿易コースの設置も時代に合わせた教育方針でした」と語ります。

(法人広報企画課・中村康生)  

 この連載をお読みになってのご感想、情報の提供をお待ちしております。

 法人広報企画課までお寄せください。

 koho@aichi-toho.ac.jp