第55回 和丘祭からの一歩 1965

2019年5月20日

4人だけの女子学生

短大時代と同じ扇形校舎を訪れ懐かしむ丹下さん

 1965(昭和40)年4月に開校した東邦学園短期大学には96人が入学しましたが、1967(昭和42)年3月の卒業生は58人しかいませんでした。38人が卒業できなかったわけですが、東邦学園「50年史」によると、初年度中に14人が退学・除籍(学費未納等)となっています。

 入学時に5人いた女子学生も卒業名簿では4人に減っていました。丹下(旧姓加藤)要子さん(名古屋市名東区)、松本(旧姓鬼頭)君代さん(同緑区)、前田(旧姓後藤)年子さん(住所不明)、太田玉恵さん(同)です。

 丹下さんは名古屋市立向陽高校から現役で東邦学園短大に入学しました。丹下さんの父親と初代学長の隅山馨はともに、「モラルジー」と呼ばれる倫理道徳に基づく社会教育活動に関わっていました。「女子の志願者が少ないので、ぜひ娘さんを東邦に進学させてほしい」という隅山の強い要望があって東邦短大への入学を決めたそうです。

 丹下さんは向陽高校では商業課程最後の卒業生。「女子ばっかりの高校生活だったので、男子学生がほとんどの短大生活になじむのが大変でした。年輩者が多く、何か意見を言うと、〝そんな青臭いことを言うな〟と相手にされないこともありましたよ」と丹下さんは振り返ります。

 松本さんは県立愛知商業高校卒。1938(昭和13)年生まれで、短大では現役入学の丹下さんよりは9歳上でした。会社勤めをしていましたが、税理士資格を取るには短大卒以上でなければならないことを知り、母校に相談に訪れた際に、開校する東邦学園短大が特待生を募集していることを紹介され、入学を決めました。

 「年が離れた同級生が多かったので一緒に遊んだりすることはあまりありませんでした。それでも楽しい思い出もありますよ。男子学生が運転してきた車にふざけて9人で乗り込んだんです。お巡りさんに見つかってしまい、平和が丘の山の中に逃げ込んで振り切りました。今となっては貴重な青春の思い出です」

学生相談室オープン

会計ゼミで学ぶ女子学生4人

 「4人しかいない女子学生たちのために話し相手になってほしい」。隅山学長からの依頼でカウンセラーに担ぎ出されたのが後に第5代学長(1980~1984)に就任することになる榊文子でした。下出義男の長女で榊米一郎氏(豊橋技術科学大学初代学長など歴任)と結婚。開校前に急逝した下出貞雄理事長、後任理事長となった下出保雄の姉で、現在の榊直樹理事長(愛知東邦大学学長)の母です。

 1996年3月発行の短大後援会誌『邦苑』17号で榊が思い出を語っています。

 「扇形の階段教室のある校舎は斬新な感じがしましたが、周囲は西部劇の荒野を連想させるような赤土ばかり。雨の日はぬかるみに靴を取られたり大変でした。男女共学とはいえ、大部分が男子で女子はわずか4名。年齢もキャリアも異なり、隅山先生はそのあたりを気遣われたのでしょう。何をどう話し合ったか記憶はさだかではありませんが、相手にした学生さんの一人ひとりの顔は今でも目に浮かびます」

 カウンセリング室にはやがて男子学生も出入りするようになり、現在のB棟正面玄関脇の階段を上った踊り場横に「学生相談室」がオープンしました。「ほとんど毎日学生が来ました。その頃、私は教科を持っていなかったので、成績とは関係ない教師として、安心して何でも打ち明けられたのでしょう。時には一人で、時にはグループで訪ねて来ました。昭和40年代初めの学生たちの悩みは、急速な経済成長による社会のひずみに関係していることが多く、個人的な努力ではどうにもならない問題を前にして、自分の非力を情けなく感じたことを覚えています」

 榊が学生相談室の仕事と同じくらいの熱心さで始めたのが短大のPRでした。誕生したばかりの短大を知ってもらおうと、パートナーの教員とともに愛知県下の高校を次々に訪問しては教科の内容や少人数教育の特色などを訴え続けました。

学生会の発足

学生会メンバー。前列左が長尾さん、右が丹下さん、後列右が松本さん

 開校したばかりの東邦学園短大では、ゼミを中心にした少人数教育のほか、学生同士の交流や対話を活発にしようという試みが相次いで企画されました。5月17日、6月29日には「体育デー」が行われ、ソフトボール、バレーボール、卓球等の球技を中心に、ゼミ対抗戦が行われました。

 体育デー主催者である学生たちの実行委員会はやがて学生会へと発展していき、同時にクラブ活動の組織化が急ピッチで進められました。

 7月5日には学生会結成大会が開かれ、役員選挙で選ばれた長尾博徳さん(豊田市)が初代会長に就任しました。長尾さんは、「学園側もできるだけ早く、短大としての形を整えたかったのだと思います。学生会規約作りなど細かいことまで、事務部長だった増田繁夫先生が積極的にバックアップしてくれましたし、いろんなことで親身に相談に乗ってくれました」と語ります。

 

「和丘祭」開催

第2回和丘祭でのファイアーストーム

 学生会が最初の大仕事として取り組んだが11月の第1回大学祭でした。大学祭は、「平和が丘」の地名を由来とする「和丘祭」とも呼ばれました。長尾さんは実行委員長としてあいさつし、大学祭の意義を述べました。(抜粋)

 <7月に学生会が発足して以来3か月余り、私たちは学園ムード作りに努力してきました。昔のことわざに「初心忘るべからず」という言葉がございますが、私たちはこの第1回という意義ある学園祭の精神として、後の学園祭の模範となるよう精進しなければなりません>

 長尾さんがあいさつの中で「初心忘るべからず」の言葉を引用したのは、父親の濵夫さんの教えでした。長尾さんが中学1年生の時、名古屋は伊勢湾台風の襲来を受けました。南区にあった濵夫さんが創業した「長尾工業」も水に浸かり大きな被害を受けました。「初心忘るべからず」は、不屈の精神で工場を再興させた濵夫さんからたたき込まれた信条でした。

 「和丘祭」は、名古屋大学講師だった新進経済学者の飯田経夫氏を招いての講演会、ゼミ対抗の催し、京都見学バスツアーなどささやかな企画内容でした。しかし、その後、途絶えることなく、歴代学生たちによって引き継がれ、現在の愛知東邦大学のキャンパスでも秋の大イベントとして開かれています。長尾さんたちが取り組んだ「和丘祭」は愛知東邦大学の学生会活動のルーツにさかのぼる第一歩でもありました。

 今年秋には第55回和丘祭が開かれる予定であることを知った長尾さんは感無量の様子でした。「そうですか。私たちが手がけた和丘祭が忘れられずに今でも引き継がれているんですか。胸が熱くなります」。

クラブ活動の始動

空手部も誕生。中央がランゲさん

 1期生卒業アルバムには7部(空手、文芸、写真、バスケットボール、野球、卓球、ワンダーフォーゲル)と6同好会(園芸、柔道、コーラス、ソロバン、ESS、テニス)の写真が収められています。丹下さん、松本さんら女子学生4人はいろんな部や同好会に引っ張りだされていました。創部にかかわった人たちの思い出です。

◇野球部(準硬式)

 作ったのは東邦高校で硬式野球部員でもあった飯田司朗さん(瀬戸市)。飯田さんは1964(昭和39)年春の甲子園に出場しました。投手でしたが先発ではなく、1回戦で報徳学園に敗れたため、甲子園のマウンドには立てませんでした。

 「野球部がスタートしたのは2年生の時。集まったのは2年生を中心に15人くらい。大学周辺の空き地をグラウンドとして使いました。同好会みたいなものですが、大会に出るためにユニホームも作りました」と飯田さんは懐かしそうでした。

◇バスケットボール部

 熱田高校時代から競技経験のある長尾さんの呼びかけで発足しました。現在のB棟前中庭付近にコートが作られましたが、バスケットや支柱は、「長尾工業」を経営していた父濵夫さんが工場で作り、持ち込んでくれました。

◇ワンダーフォーゲル部

 東邦高校出身の大野明さん(名古屋市西区)もメンバーの1人でした。「何か部を作らなければならないということだったの7、8人が集まって作りました」と語る大野さん。「富士五湖一周」の走破を成し遂げましたが、その練習のため、名鉄名古屋駅付近から岐阜駅まで、夜間に国道22号線沿いに歩いたそうです。

◇空手部

 長尾さんが持っていた卒業アルバムには短大の看板のかかった建物前で練習する部員たちの写真がありました。中央で構えているのはウイリヘルム・ランゲさん。ドイツ籍ですがドイツ語は話せず、得意の名古屋弁をまくしたて学生会活動を盛り上げたそうです。長尾さんら卒業生たちの話によると、ランゲさんは卒業後、ユニークなキャラクターが買われてか、当時人気のあった日本テレビの「11PM」や名古屋の民放テレビ番組に出演したこともあったそうです。

 ランゲさんの名前は短大の同窓会名簿にはありませんでした。ただ、ランゲさんとは同じ八事小学校、川名中学校に通っていたという丹下さんから興味深い話を教えてもらいました。今年(2019年)1月、丹下さんは名古屋市千種区の病院近くでランゲさんを見かけたそうです。「奥さんと思われる女性をいたわるように歩いていました。私は車を運転していたので話しかけることはできませんでしたが、あの特徴ある顔は間違いなくランゲ君でした」。

(法人広報企画課・中村康生)  

 

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