第56回 台湾から来た劉さん1967

2019年6月10日

東邦学園短大初の留学生

52年ぶりに再会した劉さんと松本さん(地下鉄本山駅1番出口で)

 東邦学園短期大学(以下東邦短大)の第1回卒業生の皆さんへの取材を進めたことがきっかけで、1967(昭和42)年3月の卒業以来52年ぶりに再会を果たした人たちがいました。劉家昶さん(82)(名古屋市西区)と松本(旧姓鬼頭)君代さん(81)(名古屋市緑区)です。
 劉さんは台湾出身。東邦短大最初の留学生です。入学時は同期生では最年長の28歳でした。松本さんも会社勤めを経て26歳での入学。年齢が近かったこともあり、松本さんは、日本語の授業に苦戦していた劉さんの相談相手にもなっていました。
 劉さんがどうして東邦短大に入学しようと思ったのか、大学側の留学生を受け入れ体制はどうだったのかなど、劉さんから話を聞かせてもらおうと、西区比良にある劉さんが経営する台湾スタイルの中華料理店「龍苑」を訪れたのは5月22日でした。
 東邦短大に入学した劉さんは日本語の授業では苦労の連続でした。「ひらがなは読めるが意味が分からない。漢字の意味は分かるが日本語として読めない」。専門用語が飛び交う授業。時にはなえてしまいそうな劉さんを励ましてくれたのは同級生の仲間たちでした。とりわけ、松本さんには、ひらがなを漢字で書いてもらったり、漢字の読みをひらがなで書いてもらったり助けてもらい続けたそうです。

52年ぶりの再会

貿易コースの授業風景(右端が劉さん)

 松本さんにはこの連載第55回に「4人だけ女子学生」として登場していただいていました。「松本さんは元気なんですね。連絡先を教えてもらえませんか。できれば、事前に私から電話が入ることも伝えておいてほしい」。劉さんが連絡を取りたがっていることを松本さんに伝えると、松本さんは懐かしそうでした。
 劉さんと松本さんは5月30日、かつて短大のスクールバス発着場所に近い地下鉄東山線本山駅1番出口で待ち合わせ、52年ぶりの再会を果たしました。広小路通に面したビル3階のレストランで、劉さんと松本さんの話は弾みました。
 「尾崎久弥先生の『坊ちゃん』の授業は覚えてる?尾崎先生はだいぶ年とってはいたけど、声はよく通り、格調高い授業だった」「ワシにはチンプンカンプンだったよ」「夏目漱石の難しい言葉がどんどん出てくるから劉さんには分からなかったでしょうね」。一般教育科目の国語担当教授だった尾崎久弥は東邦商業学校、東邦高校の教壇にも立った、着物姿の名物教員でした。
 「杉本公義先生の経済科目の授業では、先生が読み上げる教科書の内容をノートに書き写さなければならなかった。苦労したよ。人の3倍の時間がかかったかな」。会話の節々に、日本語と格闘した劉さんの苦戦ぶりがにじみ出ていました。
 「インターネットで連載を見たという娘から、へえ、お母さん、こんな学校に通っていたんだという電話がかかってきましたよ。結婚する前のことですからねえ。50年以上もたって、劉さんとまた会えるとは思ってもいませんでした」。劉さんと向き合った松本さんも懐かしさがこみ上げてきているようでした。

「あいうえお」教育と空襲

東邦高校側から見た開校当時の東邦学園短大校舎

 劉さんは台湾の桃園国際空港に近い中攊市出身。日本統治下だった1936(昭和11)年生まれです。小学1年生で「あいうえお」を習うなど日本式教育を受けました。しかし、台湾でも米軍爆撃機による空襲が激化し、劉さんたちも6年生に引率されて防空頭巾をかぶって防空壕に逃げ込む日が毎日のように続きました。
 戦争が終わり、小学3年生からは中国語での授業となりました。日本語は禁止され、〝あいうえお〟を知っていることでにらまれるようになりました。国民党政権が本省人(台湾人)や日本人に発砲して弾圧に乗り出した2.28事件も起きるなど、不穏な動きも続きました。
 劉さんは台北の中学、高校を卒業し、小学校の代用教員をしました。教員不足で、高校卒で教員資格が取れたからです。劉さんは3年間、小学校教員をしたあと、徴兵制により2年間を軍隊で過ごしました。
 劉さんの兄は戦前の1941(昭和16)年から日本に渡り、名古屋市中村区で中華料理店を開いていました。日本で兄の仕事を手伝ってほしいという母親の希望もあって、兵役を終えた劉さんは日本の大学に入ることを決めました。「高卒より大卒の方が、給料が高いから」というのも大きな動機でした。
 劉さんは1964(昭和39)年に来日。翌年に開校した東邦短大に入学しました。劉さんのために中国語による入試が行われました。担当したのは教務部長の古屋二夫教授で、古屋教授は開校前年まで南山大学の中国語教員でした。
 「入試と言っても中国語で作文を書いただけ。どんな内容だったかは覚えていません。留学生の入学制度などまだ決まっていなかったのでしょう」と劉さんは振り返ります。
 入学定員を埋めることが優先課題だった大学側ですが、劉さんが授業についていけるかどうか語学力が心配だったのでしょう。

交流続く同期生たち

短大時代を語り合う大野さん、劉さん、山内さん(左から)

 劉さんと同じ貿易コースだった同級生の永田安行さん(77)(半田市)は「劉さんはとにかく真面目だった」と思い出を語ってくれました。「ゼミ担当の児島正光先生は、高齢ということもあったのでしょう、学生たちに課題を与えた後、ポカポカ陽気もあって居眠りしてしまった時があったんです。私たちゼミ生たちはこれ幸いと教室から抜け出したんですが、児島先生が目覚めるまで課題に打ち込んでいたのは劉さんだけでした」。
 永田さんは南山高校を卒業して名古屋港管理組合に就職。大学で勉強をしたくて東邦短大に入学しました。短大時代から劉さんと同じ中村区で学習塾を開いていたこともあり、劉さんとは卒業後もずっと付き合いを続けています。
 劉さんへの取材で5月22日に龍苑を訪れた際には、同じ西区に住む同級生の大野明さん、あま市に住む山内明利さんも一緒に顔を見せてくれました。2人とも東邦高校出身で、大野さんにはやはり連載の55回で、ワンダーフォーゲル部の活動の様子を電話で聞かせてもらっていました。
 龍苑で盛り上がった3人の話の中では、やはり短大時代の劉さんの真面目ぶりが話題になりました。「劉さんは知らなかったかも知れないけど、僕らの東邦高校の校訓も〝真面目〟だったんだよ。短大時代の僕らを見ていたら想像できないだろうけど」という山内さんの話に爆笑が起きました。
 当時の車通学も話題になりました。大多数の学生は地下鉄や市バス、スクールバスを乗り継いでの通学でしたがマイカー通学組も何人かいました。山内さんはマツダのキャロル、永田さんはダットサン、学生会長だった長尾博徳さんはカローラで通学していました。岐阜県の郡上八幡からフォルクスワーゲンで通学していた仲間もいました。
 山内さんは、「私も父親が須ヶ口で八百屋をしていましたが、車で通学してくる学生は商売や工場など自営業をやっている家の息子が多かった」と言います。
 劉さんも永田さんら同級生の車にはよく同乗させてもらいました。台湾時代にブラスバンドをやっていたこともあり、東邦短大ではコーラス部にも所属し、交流の幅を広げる中で日本語を磨いたようです。

中華航空機墜落事故では言葉の架け橋役も

劉さんの店に飾られている中華航空機墜落事故での「褒奨状」

 劉さんは東邦短大を卒業して貿易会社に就職したいと思っていました。短大卒よりは4年制大学卒が有利だろうと、いったん台湾にもどって日本語の勉強をし直し、1年後に再来日し、八事の中京大学商学部3年生に編入学しました。それでも言葉での苦労は続き卒業には3年かかりました。
 中京大学時代も、劉さんに出席票の提出を頼み、授業を抜け出す学生や、教室の後ろでは、授業中にたばこを吸う学生もいたそうです。
 「日本の学生の行儀の悪さは本当にどうなっているのかと思いました。台湾とは全然違う。台湾の方が、日本の統治時代の教育のいい面での影響が残っていたのかも知れません」と劉さんは語りました。
 劉さんは中京大学を卒業し、名古屋の貿易会社に就職しました。しかし、店舗を増やしていた兄の中華料理店を手伝うために5年間勤務して退職。35歳で結婚し、奥さんの姓をもらい日本名を松本家長としました。42歳で独立し、西区に龍苑をオープン。大きな店ではありませんが奥さんと2人でコツコツと40年間、店を続けてきました。2人の娘さんがいますが、長女のさくらさん夫婦はともに東邦高校卒です。
 劉さん、大野さん、山内さんの話が盛り上がり、東邦高校の「平成最後」の優勝が話題になりました。「平成元年の優勝の時、東邦高校2年生だったさくらは甲子園で応援したよ。あの時はうれしくて、一口5000円の寄付のお願いがあった時は10口寄付した」。劉さんは、〝東邦マインド〟が娘に引き継がれていることが嬉しそうでした。
 25年前の1994(平成6)年4月26日、名古屋空港で中華航空機墜落事故が起き、乗員乗客271人中264人が犠牲になりました。乗客63人が台湾人で、名古屋華僑総会理事だった劉さんは連絡を受け、事故翌日から1週間、通訳や救援活動を続けながら犠牲者家族に寄り添いました。龍苑店内には台湾政府から贈られた「褒奨状」が飾られていました。東邦短大時代には日本語の壁にもがき、言葉が通じない悔しさが身にしみていた劉さんだからこそできた、大惨事の中での言葉の架け橋役だったに違いありません。

(法人広報企画課・中村康生) 

 

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