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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第60回

バリケード封鎖の衝撃

1969

更新⽇:2019年8月9日

10数人が未明の籠城

東邦短大封鎖の記事が掲載された「中日新聞」

  1960年代後半、全国で学園紛争の嵐が吹き荒れました。1969(昭和44)年1月には東大安田講堂に立てこもる学生たちの機動隊による強制排除がテレビ中継され、東大入試は中止されました。この年、東邦学園短期大学でも本館がバリケード封鎖される騒ぎが起こりキャンパスに衝撃が走りました。「東邦短大でも封鎖」という3段見出しの記事が踊った9月30日(火曜日)の「中日新聞」夕刊記事です。

 <名古屋市千種区猪高町猪子石栂廻間(つがはざま)、東邦学園短大(細井次郎学長)で30日午前2時ごろ、同大学全学共闘会議の学生十数人が、学長室、研究室、一般教室などがある2号館(鉄筋コンクリート4階建て)に入り、宿直員を追い出して、机などで正面玄関をバリケード封鎖した。このため、29日から始まった前期末試験は30日から1週間延期されることになった。全共闘は学生会館の自主管理、全面的経理公開、入学時の誓約書撤回など8項目要求を封鎖の理由にあげている>

 同じ紙面は全国で吹き荒れる学園紛争の記事で埋まっています。「学生に文書で説明 名市大教養部教授会」「大阪市大医学部の封鎖解除 機動隊、1週間駐留へ」「文学部案を拒否 〝正常化〟で東教大評議会」。

 この年、東邦短大では商業デザインコースに研究科が開設されました。同コース主任教員だった岡本滋夫元教授は「学校に行ったら、入口に机や何かがいっぱい積んであって研究室にも教室に全く入れなくなっていた。授業は出来ないので、僕らも自宅待機になった。学校から呼び出しがあって出かけていきました。封鎖していた学生を説得しようと話し合いもした覚えがありますがデザインコースの学生はいませんでした」。新聞記事のコピーを見ながら岡本氏は50年前の記憶をたどりました。

「学園民主化実行委員長」は野球部マネジャー

封鎖された本館入口(前年11月の第4回邦大祭)

大学側は慌ただしく対応に追われました。学園「50年史」によると、10月1日(水曜日)、教授会は前期試験(10月1~7日)の延期を決定。学長所信が発表され、4原則(紛争の早期の平和的解決、教育的立場を貫く、改めるべき点は誠意をもって改めて学生の意志を大学運営に反映させる、全学の総意を結集して解決に努力する)のもとに紛争解決に全力を尽くすとの表明がありました。

教授会には特別委員会が設置され、学生との折衝窓口となりました。2日(木曜日)には学生会、クラブ連合、学生有志による「学園民主化実行委員会」(実行委)が発足。実行委が占拠学生の意見も反映させて全学生の意志を決定していくことになりました。

「学園民主化実行委員会」の委員長を任されたのは商業デザインコースを卒業し、研究科に在籍していた3回生の岩月(旧姓水谷)茂さんでした。岩月さんは東邦高校出身で、短大入学と同時に野球部(準硬式)に入部しマネジャーを務めていました。研究科生になってからも野球部マネジャーを続けおり、封鎖騒ぎがあった時も、合宿のため学生会館に泊まり込んでいたそうです。

野球部は短大が開校した年の秋に創部され、リーグ戦で3連続準優勝するなど活動は活発でした。岩月さんは20人近い部員のため合宿中は食事当番も買って出ていました。親分肌の岩月さんはラグビー部、空手部、柔道部など他の運動部員たちからも〝シゲルさん〟の愛称で呼ばれ、頼られる存在でした。

「学園民主化実行委員会という名前がつけられていたなんて全然知りませんでした。学校が記録として残すために後でつけた名称でしょう。私は年齢が上ということで、まとめ役にならざるを得なかっただけです」。岩月さんは苦笑いしながら語ってくれました

 

自主的に封鎖解除

学生たちのまとめ役を果たした岩月さん

 「革マル派とか中核派とかは忘れましたが、封鎖された建物に入って、ヘルメットの学生たちと話し合いました。連中は大学の自治がどうだとか難しいことを言っていましたが、〝こんなことを続けていたらもう東邦には受験生が来なくなって、学校の経営は行き詰まってしまうぞ〟と説得を続けました」と岩月さんは振り返ります。

 岩月さんは、リーダー格の学生に「一緒に来て説明してほしい」と頼まれて、東区車道にあった愛知大学名古屋校舎に出向き、同じセクトと思われる学生たちとも話し合いました。

 岩月さんは、バリケード内で話し合った際の学生たちの言い分が伝わるよう、その内容を書いて大学側に渡すとともに粘り強く説得を続けました。5日目の4日(土曜日)になって封鎖学生たちは自主的に封鎖を解除しました。年上であることに気を遣ったのか、岩月さんは封鎖した本館を出る学生たちから「ありがとう」とお礼を言われたそうです。

 5日(日曜日)と13日(月曜日)の2度にわたる学生集会で、実行委と特別委が確認書を交換、紛争は収束を見ました。

 商業デザインコース1年生だった浅井繁喜さん(名古屋市中川区)も野球員だったこともあり、岩月さんたちとともに封鎖学生たちの説得にあたりました。

 浅井さんによると、封鎖に加わった10数人中、東邦短大生は4、5人で多くが他大学生と思われました。東邦短大生には顔見知りもいました。浅井さんは後日、封鎖に加わった学生の一人から、「俺はお前らにだまされた」と言われたそうです。封鎖に関わった学生たちにとっても、解除は苦渋の選択でもあったのでしょう。浅井さんは封鎖に加わった学生たちについて、「まだ十分整っていなかった大学施設や教学面での不備への不満も引き金になったのでは」と語ります。

 浅井さんは美術系大学の受験に失敗し、1浪して東邦短大に入学しました。東邦短大を卒業後、教員免許を取るため武蔵野美術短大に再入学。名古屋市の教員採用試験に合格し中学校での教員生活を送りました。定年退職後も飛騨古川の祭りを描き続けながらトワイライトなどで美術教育に携わっています。

 

 

交わされた「確認書」

バリケード封鎖での思い出を語る浅井さん

東邦短大教授会と学園民主化実行委員会が10月13日、体育館で開催された2度目の全学集会で取り交わした確認書は、多少の留保条件は付けられたものの、学生の要求を基本的に受け入れた内容でした。(「50年史」資料編173に収録されている内容です)

  • 一、学生会館(1号館)の自主管理を認める。
  • 一、許可制の廃止と届出制への変更の要求について
  • (1)本館、体育館の使用、クラブその他の合宿活動は届出制とする。ただし、体育館の使用については、現行の体育館使用規定ならびに同使用細則に準拠し、さらに一般学生(クラブ以外)の使用時間制限について検討を加え、補訂するものとする。
  • (2)立看板その他掲示物、ビラ等は許可ならびに届出を必要としない。
  •  (3)ミーティング・ルームの使用は従来のままとする。
  • (4)なお、本館使用は授業ならびに大学の行事を優先させ、使用時間は午前9時より午後5時までの間に限る。
  • (5)集会については届出制とする。
  • 一、経理公開を行う。なお、その方法については別途検討することとする。
  • 一、入学時の誓約書は廃止する。
  • 一、ストライキ行為に関する権利を、学生の自治活動の一環として認める。
  • 一、出欠制の廃止について
  • (1)出欠を受験資格に関わらせない。
  • (2)講義担当者が、その学科の目的からみて必要と判断する場合は、出欠をとることもある。
  • 一、学長は「大学立法」に関する所見を表明する。
  • 一、以上の項目を確認します。

昭和44年10月13日

東邦学園短期大学教授会代表 坂倉謙三

学園民主化実行委員会委員長 水谷茂

 

当時2年生だった商業デザインコース4回生の小谷恭二さん(故人)は『東邦学園短期大学の43年』(東邦学園発行)に思い出を寄せていました。「私も学生会役員をしていましたので、夜遅くまで活動家と話し合いをした思い出もあります。学校で勉強すること以外にも多くのことを経験し、良くも悪くも思い出の多い学生時代でした」

岩月さんは「学生会館の自主管理といったって、僕ら運動部員たちは2階のクラブ室に合宿のため泊まり込んでいたし、とっくに自主管理していた。看板の立てるのだって自由だった。まだ全校生でも400人に満たない2学年だけの小さな短大。みんな仲がよかったんです」と語ります。

岩月さんは、奥さんの実家のある豊橋市で繊維製品卸会社の社長をしていましたが火災に遭い会社を整理。名古屋市内で13年間、タクシードライバーとしてハンドルを握り続けています。10月の誕生日で71歳を迎えます。

「三無主義の打破」掲げた邦大祭

学生会館に掲げられた「三無主義の打破」の看板(1969年11月)

 教授会側委員の一人で、学生たちとの折衝にあたった原昭午元学長(名古屋市名東区)は、「立てこもった学生たちはまじめな学生たちでした。よその大学の学生運動の影響を受けるような当時の気風のようなものも持ち合わせていたのだと思います」と語ります。

 「確認書」が交わされてから3週間足らずの11月1日から5日まで、第5回「邦大祭」(大学祭)が開催されました。「我々の手で創造の場を」のテーマとともに、「我々の手で無責任、無気力、無関心を打破しよう」という「三無主義の打破」がサブテーマに掲げられました。

 学祭パンフレットで嶋田健吉理事長は学生たちにエールを送っていました。「今回の紛争にあたって、お互いの良識で話し合いにより平和裡に解決へのルートが開かれたことは喜びにたえない。幸いにこのたびの学園紛争も色々の教訓と示唆を残しながらも無事話し合いによる平和的な解決の方向を見出して学園祭を迎えることになった。有意義なフェスティバルにしてほしい」(抜粋)

 嶋田は学園創設者である下出民義の四男。北海道電力監査役から1967(昭和42)年1月に学園専務理事に迎えられ、下出保雄に代わって同年6月に第5代理事長に就任。「教育関係の経験はないが、60歳以後の人生の再出発をしたい」と決意を述べていました。

 第5回邦大祭パンフの「クラブ・同窓会紹介」欄に、封鎖に加わったとみられる社会科学研究会の学生のアピール文が掲載されていました。

 <革命的、戦闘的、先進的学友諸君!我々、社会科学研究会は反戦委員会と密接な連関を保持しながら、今日に至っている。(中略)11月佐藤訪米は断固粉砕しなければならない。そのためにも我々の全精力をブチ込んでいかねばならない。この小冊子が諸君らの眼に届くころには、東邦短大の状況も多少変化しているかも知れないが、とにかく邦大祭実施にあたってご苦労なされた方々に感謝の意を表します>(抜粋)

 アピール文には執筆者の名前も書かれていましたが、封鎖に関わった学生たちの氏名について岩月さんは、「うーん、思い出せないなあ」と口を濁しました。

法人広報企画課・中村康生 

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