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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第62回

税理士試験に挑む

1969

更新⽇:2019年9月27日

東邦短大出身の税理士誕生

東邦短大時代の思い出を語る本多さん

 開校5年目を迎えた東邦学園短期大学(東邦短大)では税理士を目指す学生たちが「税研クラブ」を作って国家試験対策に取り組んでいました。国家資格である税理士になるには税理士試験で、会計2科目と税法3科目の計5科目に合格し、2年以上の実務経験が必要です。受験資格は短大卒か大学3年次以上のため、短大在学中の受験はできません。短大生が5科目合格を果たすには卒業後、最短でも5年はかかると言われた難関資格でした。

 東邦短大出身で最初の税理士となったのは1969(昭和44)年に入学した5回生の本多久夫さん(名古屋市中村区)と渡会秀明さん(故人)です。2人とも卒業後、税理士事務所で働きながら卒業7年目で税理士資格を得ました。

 本多さんは1948年生まれの団塊世代。富山県入善町出身で工業系高校(北日本電波高校)を卒業。希望していた地元での就職ができず、名古屋に出て3年間、土木工事の仕事をしました。延伸工事が進んでいた地下鉄東山線の星ヶ丘~一社間の建設工事現場です。

 肉体労働に明け暮れながら、将来の人生設計について考え、たどりついたのが税理士への挑戦でした。一社駅が開通した1969年4月、本多さんは東邦短大に入学しました。21歳の時でした。「高校の推薦状と作文、面接で入れてもらいました。面接では税理士を目指していることを話しました」。本多さんはちょうど50年前となる入学当時を振り返ります。

「税研クラブ」での猛勉強

税研究クラブ(前中央が小津助教授、右端後ろが本多さん、前が渡会さん)

 東邦短大は商業科のみですが、会計・税務コースを中心に、税理士を目指す学生たちが税研クラブ(税法研究会)を作り、猛勉強していました。本多さんも迷わず入部しました。出入りしている部員は20人近くいました。

 「部長は4回生の田中善夫さん。私と渡会君が卒業7年目で税理士に受かりましたが、その後に田中さん、その次に同級生(5回生)の川井秀夫君が受かりました。残念ながら、私が知っている東邦短大出身の税理士はこの4人だけです」と本多さんは言います。

 税研クラブの顧問であると同時に、会計・税務コースで税理士を目指す学生たちに厳しい指導をしたのは小津昭司氏です。(小津氏は1970年に講師から助教授になり、1979年に教授、理事。以下は小津助教授と表記)。

 小津助教授は1937年生まれ。本多さんが入学した当時は32歳の若手教員で、スパルタ指導ともいえるほど学生たちの指導には力を入れていました。5回生卒業アルバムの小津ゼミの寄せ書きに小津助教授は、「税法を学習する苦しみは人生の苦しみ。税法を学習する楽しさは人生の楽しさ」とも書き残しています。

 本多さんは、卒業2年目に、所得税法の試験に合格。所得税法は、法人税法、相続税法とともに〝国税三法〟の中でも最も難しいと言われた科目でした。3年目に相続税法、4年目に簿記論に合格。「ただ、これで楽勝と油断したのがいけなかった。4年目からはずっと落ち続けました。結局、最終的に5科目に合格したのは7年目になってしまいました」。

 本多さんは苦笑まじりに振り返りながら、「あきらめずに挑戦し続けられたのは、厳しく指導してくれた小津先生との出会いがあったからこそです」と語ります。

 会計・税務コースでは小津講師と小西文夫教授がそれぞれ20人近くのゼミ生を指導。両ゼミ生のほぼ半分が、税研クラブに入って税理士を目指しました。税研クラブの部室は運動部や文化系サークルと同じ、2階建て学生会館内にありました。名古屋から離れて岐阜方面での合宿もしました。

迷った4年制大学編入

5回生小津ゼミ卒業アルバムでの小津助教授の寄せ書き

 学生として税理士試験の受験勉強ができるのは2年しかないなか、本多さんは2年生の時、法学部のある4年制大学への編入を考えたそうです。大学の法学部で民法や商法などの法律を本格的に学んでから税理士試験を目指した方が合格の確実性が高いのではないか。法学部でしっかり勉強すれば、税理士だけでなく司法試験に挑戦し、弁護士にもなれるかもしれない。

 本多さんは名古屋市内で法学部があった名城大学に足を運び、一度、授業を聴講してみました。編入試験について調べたところ、英語のほかに第2外国語も必要と分かりました。東邦短大で中国語を担当する古屋二夫教授のもとで中国語を教えてもらうと思ったそうです。

 しかし、本多さんから相談を受けた小津助教授は、「4年制大学に行っても何にもならない。税理士事務所で経験を積んで税理士になった方が絶対いい。試験に受かっても実務経験は必要なのだから」と一蹴しました。

 本多さんによると、税理士試験合格を目標とする小津助教授の厳し教育指導方針には、「予備校まがいの受験コースのような授業」と大学内から批判の声も聞かれたといいます。「批判する先生たちは、小津先生の教え方は学問を深める方法ではないという考えだったのでしょう。しかし、私たちは納得して小津先生の助言を受け入れた。小津先生は徹底して我々を指導たしてくれましたし、2年間で私たちはそれだけの実力をつけることができましした。小津先生との出会いは私にとっては幸運でした」

 

にぎわうキャンパス

本館前を発車する学園バス(1970年ごろ)

 東邦短大では開校2年目までの入学者は、150人の入学定員にはるか及びませんでした。1回生入学者は96人、2回生は95人。開校した年に明治大学を卒業し、事務職員として東邦短大に新卒採用された太田勝久さん(77)は、「隅山馨学長から〝覚悟しておきなさい〟と言われた時は冗談かと思いましたが、隅山先生は本気で心配されていました。転職を考えなければならないのかとも思いました」と言います。

 3年目に商業デザインコースと女性秘書コースが新設されたこで、一挙に257人が入学してきたことで在学生は434人に達し、やっと学生たちでにぎわうようになったキャンパスには女子学生の姿も一気に目立つようになりました。

 本多さんら5回生は192人が入学しましたが、奥さんのあつ子さん(旧姓高橋)も女性秘書コースに入学してきた同じ5回生で、キャンパスでの出会いが縁で結婚しました。工業系高校出身の本多さんは、税務計算には不可欠なそろばんが不得意で、簿記の知識もありませんでした。父親が税理士で県立緑丘商業高校(現在の県立緑丘高校)出身のあつ子さんは税理士を目指す本多さんに親身になって簿記を教えてくれました。

 学園バスは本館前から猫洞通間を往復していましたが、2人ともおなじ通学コースだったことも交際を深めるきっかけになりました。榊文子ゼミだったあつ子さんは卒業後は大同特殊鋼に就職しました。

夢を断念した1回生

卒業式を終えた本多さんら5回生たち(卒業アルバム)

 この連載の第55回で登場していただいた1回生の松本(旧姓鬼頭)君代さんも、税理士を目指して東邦短大に入学した一人でした。松本さんは県立愛知商業高校を卒業して会社勤務、経理の仕事をしていました。上司の勧めで税理士資格を目指そうと東邦短大に入学しましたが、あまりにも高く感じたハードルを前に、夢を断念せざるを得ませんでした。

 「小津先生は熱心に指導してくれましたが、税法の授業はあまりにも難解で、私はついていけませんでした」と松本さんは振り返ります。卒業後、再び会社勤めをしながら税理士試験科目の一つである簿記論には合格しましたが、税法科目受験までには至りませんでした。

 「経済的な事情もあり、試験勉強を続ける余裕がありませんでした。合格するにはよほど覚悟を決めて打ち込まないと無理だと思いました。私のように、学生時代の授業についていけず、眠くなってしまうようではとても無理でした」

 松本さんによると、同じ1回生の中には、やはり税理士を目指して熱心に勉強を続けていた男子学生もいたそうですが、どうなったかは分からないそうです。1回生でたった4人しかいなかった女子学生の一人である松本さんが、税理士を目指して東邦短大に入学してきたことを知った本多さんは「そうですか。志が高い女子学生が最初からいたんですね」と感慨深そうでした。

 本多さんは税理士になった後の1980(昭和55)年ごろから東邦短大、愛知東邦大学の同窓組織である「邦友会」の監査役を務めています。同窓生たちの消息は40年近く、ずっと気にかけてきました。本多さんの知る限りでは、東邦短大出身の税理士は、5回生の本多さん、渡会さん、川井さんと4回生の田中さんの4人しか確認できないと言います。女性で税理士になった卒業生が一人いるという噂は聞いたことがあるそうですが、氏名は特定できないそうです。

 「邦友会会員に愛知東邦大卒業者が少ないのが残念ですが、これからの愛知東邦大学には税理士に限らず、弁護士や公認会計士をめざす学生がどんどん入ってきてくれることを夢みています」。本多さんの夢に応える若者たちがぜひ現れてほしいものです。

法人広報企画課・中村康生 

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