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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第65回

平和が丘で迎えた50周年

1973

更新⽇:2019年11月5日

嶋田理事長の死去と下出保雄理事長の復帰

 1973年当時の東邦短大(手前)と東邦高校(奥)

 東邦学園は1973(昭和48)年5月12日、創立50周年を迎えました。しかし、記念すべき節目の年を前に、学園は、東邦高校と東邦学園短大(東邦短大)の学園統合をめざした嶋田健吉理事長を失っていました。

 嶋田は1971年早々から体調を崩し病床につき、岩井良太郎学長が理事長代行を務めました。同年9月、嶋田は理事長を辞任し、翌月10月17日、平和が丘の台地に誕生した統合キャンパスを見ることなく他界しました。まだまだ働き盛りの64歳。学園追悼式は10月30日に営まれました。

 嶋田は専務理事(1967年1月~6月)を経て理事長に就任。寄付行為の改正など学園運営の近代化、財政収支の改善に奔走し、東邦高校の赤萩からの移転を成し遂げました。嶋田の理事長辞任により、下出保雄が4年ぶり理事長に復帰しました。

 下出保雄は1964年10月から2年間、兄である理事長の下出貞雄の急逝で、第4代理事長に就任。その後、兼務する会社経営に専念するため嶋田に理事長職を引き継いでいました。1971年9月から第6代理事長として再び学園を率いることになった下出保雄の直面する課題は、平和が丘の統合キャンパスの施設と教育の充実でした。

 

高校に体育館完成

『東邦PTA』1号が紹介した完成した体育館と第24回卒業式

 東邦高校は1972年、体育館建設に着手しました。在校生数が第1次ベビーブームの1965年度には2985人に達するなど、2000人を上回り、全校生徒が着席できる新体育館建設は赤萩時代からの悲願でした。名古屋市公会堂など外部施設を使って入学式、卒業式を行う状態がずっと続いていたからです。

 体育館竣工式は創立50周年の1973年5月に行われました。柔剣道場、バスケットコート2面の広さを持ち、トレーニング室、シャワー浴室も備わり、中2階には東邦会の事務室・応接室も置かれ、当時の高校体育館としては自慢の体育館の完成でした。

 学園50年史は「体育館の完成は直接的には体育科の授業内容に大きな改善の保障をするとともに、生徒の学校生活の流れにも大きな変化をもたらした。赤萩時代の狭い運動場から、赤萩時代の全敷地の約2倍に相当する現運動場へ移っただけでも生徒ははち切れるような青春のはけ口を見つけたようであった」と書き込んでいます。

 竣工式を待たず、1973年3月には第24回卒業式が新体育館で行われ、708人(商業科227人、普通科481人)が、平和が丘から巣立ちました。

 1974(昭和49)年度の高校「学校案内」にの体育・生徒会施設と校外施設の紹介ページでは、誕生した体育館の外観と、新体育館で行われた第24回卒業式、1973年3月に取得された岐阜県郡上郡白鳥町石徹白の「石徹白山の家」、東郷グラウンドで練習中の硬式野球部、「多彩なクラブ活動」の紹介ページには平和公園の平和堂が見えるグラウンドで練習に励むサッカー部、水泳部、音楽部などの写真も紹介されています。

 50周年を機に創刊された東邦学園PTA発行の『東邦PTA』1号(1973年6月)で浅井静男校長は、「教育環境も体育館の完成をもって一応整備完了しました。移転3年目にして、砂漠的眺望はみるみる住宅地的様相と転化してきました。然し、隣接する東山総合公園の新緑は一段とその清新な若々しさを与えておってくれます。それは学園を大きく包み、はぐくんでいるかのようであります」と書いています。

 

短大生の反発も

創立50周年を迎えた東邦学園の配置図

 体育館建設をめぐっては最初、東邦短大の一部学生から反発もありました。現在は東邦高校のグラウンドを挟んで北側に東邦高校、南側に短大を引き継いだ愛知東邦大学がありますが、1971年の高校移転当時は、高校が短大の北側に隣接していました。短大学生側からは、それでなくても狭いキャンパスが、高校体育館建設で短大敷地が奪われていくのでないかという不安が高まりました。

 当時、短大助教授だった中西達治氏は、「高校生が短大の敷地に入ってきたと言って、学生たちが騒ぎ出すこともあった」と言います。1971年11月11日の中日新聞には、「東邦短大でスト 高校の体育館建設に反対」という記事が掲載されました。

 <東邦短大(名古屋市千種区猪高町猪子石、岩井良太郎学長)の商業デザインコース1年生の学生約70人が、東邦高校の体育館が短大キャンパス内に建てられるのに反対して、10日午後から12日までストに入っている。スト派の学生の話だと、「短大と高校とは独立経営であるのに、高校の体育館が学生に何の説明もなく短大敷地内に建設する話が進み、短大の教育環境が侵害される。また、短大の設備面も不備な点が多く、経理も不明朗だ」と言っており、12日には全学集会を開き、全学的なストに持ち込む構え。短大側では「体育館の建設場所は理事会で決定するが、最終的にはまだ確定していない」と言っている>

 短大では施設の充実は急務でした。学生たちによる本館封鎖騒ぎ(1969年)の教訓もあり、厚生施設やクラブ活動の場を保証する「学生会館」の建設の具体化が突きつけられていました。教授会が発足させた拡充整備委員会が、校地の整備と学生会館・食堂の建設を中心とする案をまとめ理事会に提案しました。

 

「下出記念館」の誕生

現在のA棟敷地に完成した下出記念館(1976年卒業アルバム)

 待望の学生会館が竣工したのは1973年5月でした。理事でもある岩井良太郎学長は学園「50年史」に、厳しい財政難の中、突き付けられた学生会館建設要求が実現できた〝幸運〟について書き残していました。岩井氏によると資金が確保できたのは、嶋田理事長の時代に購入していた岐阜県可児町(現在は可児市)の土地が「野外民族博物館リトルワールド」の建設予定地に含まれ、1971年12月、名古屋鉄道との間で売買契約が成立したからだといいます。

 <教授会が作った短大整備計画を突き付けられた。総費用は3億円くらいだったと思う。無い袖は振れない。就任3年目、嶋田理事長が永眠され、下出理事長に代わった。青い鳥が飛び込んできた。嶋田氏が買っておいた犬山近くの土地が、2億円余の純利益を得て売れた。財政にゆとりが出た。新理事長の決断で整備計画は8、9割が実現された。学生会館(4号館)は下出記念館とした。教授会で学長一任というのでこの名を選んだ。珍しく(?)全員賛成だった>(抜粋)

 学園創立50周年を記念し、創立者である下出民義の名前に由来して命名された「下出記念館」は、現在のA棟のある敷地に建てられました。『東邦PTA』1号によると、1階に食堂と集会室、2階に講堂、3階には演習室4室とクラブ室16室が設けられました。同誌は「各階とも近代建築の粋を集め、インテリアについては本学デザイン担当教授陣の創意が反映されるなど、女子学生の増加に対応して華やいだ雰囲気に仕上げられている」と紹介しています。隣接する私有地も購入され、テニスコート、ゴルフ練習場などキャンパスの拡充も実現しました。

 下出記念館の思い出を特集した短大同窓会誌『HOYU』6号(1986年3月)は、「お昼休みには人があふれ、食事をするため席を取るのに必死になり、食券を買うのにドアの外まで並んで、冬になると寒い思いをして並んだものでした。下出記念館というのは、学生のためにと思いを込めて建てられた〝学生会館〟なんです」(抜粋)と書かれています。

 

支え合う高校と短大へ

東邦短大への着任当時を語る金子氏(名東区の自宅で)

 短大助教授だった中西氏によると岩井学長は、「こんな小さなキャンパスで高校と短大がいがみ合ってもしょうがない」とよく語っていたと言います。岩井氏は教員人事でも高校に協力を求めました。

 後に短大副学長に就任し、名誉教授第1号ともなった金子勤吾氏(学園参与)は1972年4月、東邦高校の体育教員から短大助教授に異動しました。金子氏は日本体育大出身。東邦高校の運動クラブ育成を目指していた下出貞雄校長が東京の明治学院高校で体育教員をしていた金子氏をスカウトし、1954(昭和29)年度から東邦高校教員に迎えました。

 金子氏は赤萩校舎の医務室の半分を宿舎代わりに、若さに任せて陸上、バレー、柔道、バスケットボールなどの高校運動部育成に努めました。短大教員への異動の話が舞い込んだのは東山移転の翌年でした。短大の「保健体育」科目は東邦高校の体育教員が兼務していましたが、金子氏に専任教員としての就任要請の話が舞い込みました。「岩井学長は僕と同じ埼玉県出身ということもあり、やってみようかと決めました」と金子氏は振り返ります。

 金子氏は、「東邦短大の開校当時、東邦高校の教員たちには、同じ東邦学園として短大を盛り上げていこうという空気はあまりなかった。東山への移転の時も、〝あんな山奥に生徒が通えるか〟と職員会議でもめたほどでした。しかし、すでに、近隣に開校した愛知高校や愛知淑徳高校には生徒が集まっていたこともあり、〝山奥でも何とかなりそうだ〟ということで移転への覚悟を決めました」と振り返ります。

 岩井学長は元毎日新聞記者。1970(昭和45)年から1974(昭和49)年3月まで第3代学長を務めましたが、退任後、短大同窓会誌『邦苑』20周年記念号(1986年)に「思い出の断章」という一文を寄稿をしています。

  「私立大学の学長は二束のワラジをはかされるのが通例である。一つは教育行政の管理職の仕事、他の一つは理事として学校経営の仕事だ。私は二つともダメだが、引き受けた以上は果たさなければならない責任がある。それを自覚して、自覚にもとづいて行動し、実行するだけのコントロールだけは持っていた積りである」「私の在任4年間は全部赤字だった。高校の財務会計から毎年援助を受けていた。辞任した翌年から黒字になった」

 岩井氏は1987(昭和62)年12月19日に86歳で逝去しました。榊文子元学長は、学園広報20号に寄せた追悼文の中で、当時、赤萩で開かれていた常任理事会のたびに岩井氏から、「榊さん、あれには参ったよ」と何度となく言われた思い出を書いています。短大、高校双方の都合、理事長の日程の都合で会合は夜始まりました。財政が厳しかったこともあり、議論は沸騰し深夜に及ぶこともしばしばでした。「寡黙な先生はじっと座っておられたが、よほどこたえたのであろう。就任されたころは無愛想なおじいさんとしか思わなかったが、苦楽を共にするうちに、時には親子のような親しさを感じるようになった」。

法人広報企画課・中村康生 

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