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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第66回

名東区誕生と甲子園準優勝の夏

1977

更新⽇:2019年11月22日

バンビ坂本、さわやか東邦野球で旋風

「バンビ坂本」人気も加わった第59大会(甲子園歴史館で)

 名古屋市の人口は1969年に200万人を突破し、1975(昭和50)年2月1日、東邦高校、東邦短大がある千種区猪高町は名東区となりました。天白区とともに名古屋市で最も新しい区として誕生した名東区民を歓喜させたのは1977年夏の甲子園で、1年生投手〝バンビ坂本〟を擁して勝ち続けた東邦高校の準優勝でした。

 東邦高校はすでに春の甲子園には15回出場しており3回優勝。夏の甲子園は1977年の第59回大会で8回目の出場でしたがベスト8が最高で、決勝戦まで駆け上がったのは初めてでした。そして第59回大会は、東邦のさわやかな純白ユニホームでの全員野球、バンビを連想させるあどけなさの残る1年生投手としてマウンドに立ち続けた坂本佳一投手の〝バンビ人気〟も過熱しました。

 8月20日の決勝戦の対戦校は兵庫県代表の東洋大姫路高校。東邦は2回に1点を先行しましたが、4回に追いつかれ1-1のまま延長戦に。10回裏、東洋大姫路はランナー2人を置いて、4番安井浩二主将の夏の甲子園では史上初となるサヨナラホームランが右翼ラッキーゾーンに飛びみ、劇的な幕切れとなりました。

 決勝戦翌日の8月21日の朝日新聞愛知県版は、甲子園に乗り込んだ名古屋本社担当記者が東邦ナインの健闘をたたえました。

 <とうとう深紅の大優勝旗は名古屋へ持ち帰ることはできなかった。でも、いいではないか。大会前、だれがこの東邦の活躍を予想しただろう。敗れた選手たちの顔はさわやかそのものだった。「もう、やるだけやったんだ」と。坂本が、大矢が、井上が、そして全選手が精いっぱい戦った。選手諸君、胸を張って名古屋に帰ろう。君たちは全力を尽くして戦ったのだから>

 浅井静男校長も「夏のさわやか準優勝では、高校野球の醍醐味を遺憾なく発揮し、これこそが本当の高校野球であり、これが東邦教育の真髄であることを全国津々浦々に至るまで電波に乗せました」(生徒会誌「東邦」20号巻頭文より)とたたえ、生徒たちに「自信と誇り!」と訴えました。

甲子園への試練

「対外試合禁止中の1年は心が折れそうだった」と語る大矢さん

 甲子園ファンを沸かせた第59回大会は、東邦高校にとって、初めて体験した「1年間の対外試合禁止」という大きな試練を乗り越えての出場でした。試練の幕開けは、名東区が誕生して間もない1975年6月5日、中日新聞朝刊に、「名東区の東邦高校」を世間に知らしめる衝撃的な記事が掲載されたことから始まりました。社会面の大きなスペースをさき、記事は「東邦高校野球部で集団制裁 1年生19人を殴る」「〝練習怠けた〟鼻血出す者も」のセンセーショナルな見出しとともに報じられました。

 <愛知県の高校野球の名門、私立東邦高校(名古屋市名東区猪高町平和が丘、浅井静男校長)で3日午後行われた野球部ミーティンングの席上、参加した1年生部員全員が2年生部員に集団で殴られる事件があった――>

 東邦高校は平和が丘に移転してからも、1973(昭和48)年には山倉和博捕手(元巨人)らの活躍で春、夏連続出場するなど甲子園出場の常連校でした。〝制裁事件〟の報道で高校野球ファンに衝撃と戸惑いが広がりました。

 NHK高校野球解説者の大矢正成さんは当時、硬式野球部1年生部員でした。入学して間もなく体験したこの事件について、「東邦キャンパス」127号(2017年7月発行)に掲載されたインタビュー記事での取材で苦い思い出を語ってくれました。

 一宮市立葉栗中学校出身の大矢さんは、中学時代、市大会で2年連続優勝投手でした。担任からは一宮高校への進学を勧められていましたが、学校まで訪ねてきた阪口慶三監督の熱意に打たれ東邦高校に進学を決めました。

 <愛知県では東邦が一番甲子園に近い学校と見られていましたし、東邦に入れば、ひょっとしたらプロにも行けるかも知れないと思いました。阪口監督から、「俺と一緒に甲子園に行こう」と手を握りしめられ、「お願いします」と頭を下げました。

 当時の硬式野球部では、僕ら1年生部員はすごい人数でした。2年生たちは引き締めなければと思ったのでしょう。ゴールデンウィークが明けてから、1年生を教室に集めて説教したんです。それがあたかも暴力事件があったかのような新聞記事になってしまいました>

 

心が折れそうだった

処分解除後の野球部を特集した「東邦新聞」(1976年7月13日)

 大矢さんが語るように、3日後の6月8日中日新聞に事実上の修正記事が出ました。

 <東邦高校野球部で2年生部員が1年生部員を殴った事件は、その後の千種署の調べで、クラブ規律を守るための注意の〝行き過ぎ〟で、いわゆるシゴキやリンチという性質のものではないことがわかった。このため、学校側も、野球部の活動は続けさせる方針>

 名東区は千種区から分離したものの、名東署が千種署から分離するのは1978年(昭和53)からで、名東区の所轄はまだ千種署でした。

記事は、千種署防犯課が関係者から事情聴取を行ったところ、1年生たちに被害者意識はなく、「当然の注意を受けた」とも言っており、「注意を目撃した野球部員以外の生徒には暴力行為と映ったとみている」とも書かれています。

 しかし、最初のセンセーショナルな記事の波紋は大きく強烈でした。日本学生野球協会は東邦高校に対し、「1年間対外試合禁止」の処分を下したのです。

 大矢さんは、その時の部員たちの無念さを語りました。

 <時間が止まったようでした。阪口先生を始め、甲子園への夢を断たれた3年生たちの嗚咽は今も耳から離れません。僕も心が折れそうでした。もう6月でしたから、3年生たちの高校野球はこの時点で終わりでした。我々1年生と2年生は試合ができない1年間が続きました>

 

試練を乗り越えて

第59回大会決勝進出を決め喜ぶ(左から)森田、大矢、井上選手

 1975年6月25日付で下された日本学生野球協会の東邦高校に対する対外試合出場禁止処置が解除されたのは1年後の1976年6月2日付でした。甲子園をめざし、練習を再開した硬式野球部員たち。「東邦新聞」95号(1976年7月13日)は、東郷グラウンドで練習に取り組む部員たちの写真ととも「二年分の奮闘を」の見出しを掲げて特集しました。「2年分の試合を選手と共に思い切ってやりたい」という阪口監督の決意とともに、選手たちへのインタビューも紹介されています。

 「1年間、どのような気持ちで練習に打ち込んできたのですか」という質問に選手の一人は「本当に長く、重苦しい毎日であった。部員一同、身を切るような厳寒、夏の炎天下のほこりと汗と涙の中で、自らと戦いながら、一途に練習に練習を重ねてきた」と答えていました。

 1977年夏の甲子園出場をかけた愛知大会決勝戦は8月1日、ナゴヤ球場で行われました。東邦高校は6―1で名古屋電気高校(現在は愛工大名電高校)を破り、第59回大会出場を決めました。

 キャッチャーの大矢さんとともに主将・三塁手としてチームを牽引したのは現在の森田泰弘監督です。選手だった森田監督が生徒会誌「東邦」20号(1978年)に思い出を書き残していました。

 <開会式。夢にまで見た甲子園。「栄冠は君に輝く」のマーチに合わせて、胸を張って甲子園の大地を踏む。雨空を突き破るような5万余人の大観衆の海鳴りのように続く拍手。足の先から頭の先まで、何かジーンとしびれて、まるで雲の上を歩いているような気分でした。甲子園へ来るまでの苦しかったこと、悲しかったこと、楽しかったことが、まるで走馬灯のように、次から次へと思い出され、出来ることなら野球部員全員でこの甲子園の大地を踏みたかった。中学から甲子園を夢見て東邦へ。それもつかの間、1年間の対外試合禁止。考えてもみなかった出来事で、当時は何のために毎朝早く起きて東邦に通うのかと、悲しくてさびしかったが、毎日の練習に「勇気と信念」を持って頑張りました>

 大矢さんはインタビューで、「出場明けの次の年に、甲子園に出場できたこと自体が奇跡的でした」とも語りました。

 <普通、1年間の出場停止だと、次に甲子園に出るまでには時間がかかる。それを最後の夏で甲子園の頂点に挑んだ。3年生の年に坂本が入ってきてくれた。1年生ピッチャーが投げる時代ではなかったのに見事にマウンドを支えてくれました>

名東区の歓喜と誇り

校庭で盛大に開催された甲子園準優勝報告会(8月25日)

 名東区では、「新しい町名で、希望と夢のある新しい町づくり」を進めるため、町名変更も推進されました。東邦学園の所在地である「猪高町大字猪子石字栂廻間」は1976(昭和51)年10月10日から「平和が丘三丁目」に変更されました。西側一帯に平和公園があり、「平和が丘」として親しまれていたためで、一帯は平和が丘一丁目~五丁目となりました。

 東邦高校新聞部が発行する「東邦新聞」が、題字下の学校住所を「名東区平和が丘三」に改めたのは1977年4月9日発行の97号からでした。同年11月5日に発行された99号では、新聞部による学校周辺の名東区民100人に、東邦高校に対する思いを尋ねるアンケート調査が実施されました。

 学校周辺、一社方面、星ヶ丘方面で2日間行われたアンケート結果には野球部の活躍についても地域住民の喜びぶりが反映されました。「甲子園に行かれましたか」という質問では100人中19人が「YES」と回答。「野球部の活躍についてはどんな印象をお持ちですか」に対しては、74%が「高校生らしいさわやかなチームプレーが印象的だった」と答えました。

 アンケート集計結果について新聞部は「甲子園出場では、〝高校生らしいさわやかなチームプレー〟という反響が多く、本校への印象は以前と比べて強いものになっている」と分析しています。

 東邦短大卒業生(14回生)の宇野(旧姓加藤)妙子さんは、第59回大会が開かれた夏、高校3年生でした。自宅が藤が丘だったこともあり、〝バンビ坂本〟を応援しようと東邦高校の応援バスで甲子園に駆け付けました。「私の叔父も東邦高校野球部だったこともあったし、同じ名東区ということで東邦高校を誇りに思いました」。甲子園応援に参加した翌年4月、東邦短大に入学した宇野さんは、42年前の歓喜した夏が懐かしそうでした。

法人広報企画課・中村康生 

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