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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第69回

男女共学の決断 

1983

更新⽇:2019年12月19日

志願者減少の危機感

東邦高校の男女共学を報じた中日新聞(1983年10月6日)

 1983(昭和58)年10月6日の新聞各紙は東邦高校が1985(昭和60)年度から男女共学を実施することになったことを報じました。5日に名古屋市内のホテルで開催された東邦学園創立60周年記念祝賀会での公表を受けての報道でした。中日新聞の記事です。

 <男子校として伝統のある東邦高校(名古屋市名東区平和が丘)が60年度から男女共学に生まれ変わる。同校は5日、ホテル・ナゴヤ・キャッスル(同市西区)で創立60周年記念祝賀披露・教育懇談会を開き、その中で浅井静男校長が、今後の教育計画について報告、60年度から女子を募集し、共学を実施することを明らかにした。県下では男子高校が女子部を併設したケースはあるが、共学にするのは珍しい。>(抜粋)

 浅井校長は同年12月7日付同紙の「校長室」というコラム欄にも登場し、男女共学に踏み切った理由を述べています。この中で浅井校長は、「社会に出て働く女性を育成したい。近くの中学校から女子を採ってくれないかと頼まれます。それに、隣に共学の東邦短大があるが、9割までが女子。保育とか家政ではなく商業科だが、人気がよく、毎年、入試が難しくなり、うち(男子校の東邦高校)からは入りにくいほど。これも社会の要請を反映しているからだろう」と説明しています。

 さらに、浅井校長は「中卒者の急減期対策もある。男子だけより、男女で募集するなら市場は倍で集めやすい」と減少に向かう15歳人口に対する危機感もにじませました。

 東邦高校は1971年に東区赤萩町から平和が丘に移転しましたが、1970年から5年ごとの志願者数を見ると右肩下がりが続いていました。1970年2829人、1975年1897人、1980年1796人。丙午(ひのえうま)で中卒生徒数が減少した1982年は1278人にまで落ち込んでいました。

生徒会誌が特集記事

志願者の7割が女子だった商業科共学1期生(1988年卒業アルバム)

 学園が男女共学を公表したことを受けて、生徒会誌『東邦』26号(1984年3月発行)で特集記事が組まれました。まず、男女共学の先行事例を調べようと、生徒会執行部員たちが1958(昭和33)年4月に、男女共学校として開校した同朋高校、1983年4月から共学となった中部工業大付属春日丘高校(現在の中部大学春日丘高校)を訪問し、それぞれ生徒会から話を聞きました。

 <女子の立場を考えると「共学」という意識はあまりなく、むしろ「中学の延長」という意識が強い>(中部工大春日丘高校)など、両校とも共学が自然に受け入れられている様子が報告されています。

 東邦高校生徒会では共学1期生が入学する1985年度には最上級生となる1年生全クラスへのアンケートを実施しました。質問と回答の一部です。

▽共学、別学のどちらがよいと思いますか。

 ・共学65.4%、どちらでも良い24.6%、別学10%

▽どうすれば女子がたくさん来るようになると思いますか。

 ・今さらジタバタしても仕方がない40%、クラブをさかんにする24.8%などのの回答のほか、「不良少年をすべて退学」「校舎をきれいにする」「学力レベルUP」などの提案もありました。

▽初年度は何人くらいの女子生徒が受験すると思いますか。

 ・50人未満25.4%、来るわけがない24.7%、50~100人20.6%,100~150人12%、200人以上9.3%、150~200人8%。

共学への情熱強し

「東邦新聞」の座談会記事で使われた挿絵(1959年2月)

 「男女共学」へのあこがれはあっても、女子生徒に来てもらえるかどうかでは悲観的見方が目立ったアンケート結果。こうした校風は1923(大正12)年に男子校の東邦商業学校として開校して以来の伝統でもあるようです。生徒会アンケート実施の25年前、1959(昭和34)年2月25日発行の「東邦新聞」31号に掲載された「月遅れ新春放談」でも共学問題が話題になっていました。下出貞雄校長を始め教員9人、東邦会の林伊佐武会長ら同窓生5人、PTA会長、生徒会正副会長、新聞部員たちによる大座談会です。

 司会(新聞部) 男女共学にする意志はありませんか。

 下出校長 そんな事に関心ないね。(笑)別に賛成でも反対でもないが。

 菱田教諭 仮に今、共学にしたって来やしないよ。

 中西(新聞部) 二千人のうち、三、四人だけなんて見られたものじゃないですね。

 菱田教諭 皆が一人一人連れて来てくれるなら共学にしてもいいが。(爆笑)

 新聞部員の共学への期待を込めた質問は、下出校長、教員たちには笑い飛ばされていましたが、掲載記事のカットとして使われた挿絵には、「共学への情熱強し!」のタイトルがついています。願書持参の女子受験生を連れてきた生徒に対し、「本当につれてきたのか!」と、驚きの表情も感じさせる学園関係者も登場していました。

 共学が実施される前年に、浅井校長からバトンを引き継ぎ第9代校長に就任した久野秀正氏は、この座談会記事について、「新制高校が誕生して10年がたっていたが、私立高校の大半では、共学はまだ思いもよらない時代だった。東邦高校の歴史の中で男女共学が初めて話題になったケースだと思う」と指摘しています。

 

殺到した女子受験生

共学初の入試を伝える朝日新聞夕刊(1985年2月19日)

 「はたして女子受験生たちは来てくれるだろうか」。東邦高校関係者たちが気をもんだ1985年度の共学初の入試。フタを開けると女子受験生が殺到し、関係者の心配は吹き飛ばされました。2月19日、愛知県下の私立高校51校で一斉に入試が行われましたが、朝日新聞夕刊は、東邦高校入試に注目して報道しました。女子受験生たちの写真とともに「『禁制』解けて女子殺到」「志願、商業科は七割」の見出しがつけられました。

 <60年余りの「女人禁制」を撤廃して今春から男女共学となる名古屋市名東区平和が丘三丁目の東邦高校(久野秀正校長、生徒約2000人)に、女子の入学志願者が殺到、学校をあわてさせている。普通科で3割、商業科で7割の女子志願者があって、19日の入試には千人を超す女子中学生が〝花の1期生〟を目指して挑戦、校内には仮設トイレまで設けられた>

 普通科定員539人に対する応募者2307人中、女子は663人(28.7%)。商業科は196人の定員に対しては、応募者563人中391人(69.4%)を女子が占めました。

久野校長は、886人の共学1期生を迎えた1985年度入学式で、万感の思いで式辞を述べました。「464名の男子、422名の女子の皆さん、入学おめでとう。全校挙げて心から歓迎します。特に記念すべき共学1期生たらんと、本校の門を叩いた女子生徒と、それを支えられた保護者の方々の勇気に敬意を表します」。

 

ルビコン川を渡る思いで

男女共学スタート時の思い出を語る久野秀正元校長

 予想をはるかに超えた女子受験生殺到の背景について久野氏は、男女共学で育った母親たちの意識変化をあげます。「それまで、東邦高校の入学式会場に足を踏み入れ、真っ黒の制服で埋め尽くされた男子生徒ばかりの光景は異様に映ったのでしょう。共学を求める声は親たちからも上がり始めていたのです」。

 久野氏はさらに、1977(昭和52)年夏の甲子園大会で、坂本佳一投手の活躍で、東邦高校が準優勝した〝バンビ坂本旋風〟も、共学化を推し進める大きな要因になったと言います。「女子は入学できませんか」「ぜひ入れてください」といった問い合わせや入学希望が相次いだのです。「教員たちの間では、男女共学が生徒募集の切り札になるのではという空気が強まっていきました」と振り返ります。

 1978(昭和53)年の男女共学検討委員会発足以来の論議の末に決断された男女共学の実施。決断の決め手となったのは、「男子に限定することなく、女子も含めて教育することこそ、『真に信頼して事を任せうる人格の育成』という本来の建学の精神に合うのではないか」という考えでした。

 1985年の東邦高校に続いて、名古屋市内の私立男子校では、愛知工業大学名電高校が1992年、中京大学付属中京高校が1998年、愛知高校が2005年に共学に移行しました。「私立男子校では東邦高校が共学化のパイオニアニアになりましたが、決断した時は、まさにルビコン川を渡る思いでした」。久野氏は古代ローマ時代、カエサルが「賽(さい)は投げられた」と叫び、大軍を引き連れて渡ったルビコン川を例えに、懐かしそうに振り返りました。

 1982年に1278人にまで落ち込んだ東邦高校志願者。男女共学に踏み切った1985年には2870人と倍増、国際・理数コースが設置された1990(平成2)年には6056人と開校以来最高を記録しました。

法人広報企画課・中村康生 

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