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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第70回

女性学長と定員増

1985

更新⽇:2020年1月16日

第2次ベビーブーム世代

新図書館が誕生した1981年当時のキャンパス

 1965(昭和40)年4月開学の東邦短大は1985(昭和60)年4月で開学20周年を迎えました。後援会誌『邦苑』7号(20周年記念号)には下出保雄理事長が「平和が丘に蒔かれた一粒の種は20年後の今日、4500余の立派な果実を結び、社会に家庭にすばらしい花を咲かせています」と祝辞を寄せています。商業科150人の入学定員は20年間変わりませんでしたが、4500人余の卒業生は、150人×20年分である3000人をはるかに上回る人数です。全国的に私立大学の水増し入学が横行した時代でした。

 東邦短大が開学した1965年ごろからは、第1次ベビーブーム世代が大学進学期を迎え、全国で続々と大学、短大が新設されました。そして20年後の1985ごろからは第2次ベビーブーマーが大学、短大に押し寄せて来ました。文部省は恒常的定員の拡大に加え、臨時定員の拡大で大学進学希望者の急増期を乗り切ろうとしました。

 東邦短大でも志願者、入学者が増え続け、1975(昭和50)年度は、志願者528人に対して入学者350人で、入学者が初めて300人を超えました。1978年度志願者は679人、入学者417人で、入学者がついに400人を突破しました。150人の定員の2.78倍です。こうした事態に、文部省は1975年に私立学校振興助成法を設け、入学定員超過率が1.3倍以上になれば補助金を不交付にする水増し入学抑制策にも力を入れ始めていました。

 東邦短大が、押し寄せる受験生たちを、水増し率を抑えながら受け入れるため、入学定員を拡大する対策は、2人の女性学長のリーダーシップに託されました。第5代の榊文子学長(1980年4月~1984年3月)、第6代の橋本春子学長(1984年4月~1988年3月)です。

 榊学長によって発議された150人の入学定員増員計画は1984年12月22日付で文部省から認可され、1985年度から恒常的な入学定員は50%増の225人となりました。さらに橋本学長時代には臨時定員増の申請が行われ、1986(昭和61)年度からは175人の臨時増計画が認可され入学定員400人が実現しました。

新図書館に夢託した榊文子学長

榊学長を紹介した読売新聞(1980年5月2日)

 初代理事長である下出義雄の長女で、当時の下出保雄理事長の姉である榊文子学長は第4代の坂倉謙三学長を引き継ぎ学長に就任しました。榊学長は旧制愛知県立第一高等女学校(現在の明和高校)を経て1939年に聖心女子学院高等専門学校(現在の聖心女子大学)英文科を卒業。卒業翌年に、名古屋大学工学部助教授だった榊米一郎氏と結婚しました。現在の榊直樹理事長(愛知東邦大学学長)は三男です。

 文子氏が東邦短大学長となった当時、米一郎氏も1978年に開校した豊橋技術科学大の初代学長に就任しており、全国的にもめずらしい学長夫婦の誕生として話題を呼びました。1980年5月2日の読売新聞(当時は中部読売新聞)は、夫婦そろっての学長就任について、「おそらく初めてのケース」という文部省担当者の驚きも含めて紹介記事を掲載しました。

 榊学長が就任した1980年度、東邦短大は開学15年を迎えており、記念事業として新図書館の建設が進められていました。新図書館は1981年8月に完成。地下1階、地上4階建てで、土地を有効活用するため、1階部分を柱だけの空間にしたピロティ方式が採用されました。現在のL棟より正面玄関寄りの場所に建設され、2014年のL棟の建設に伴い一部は取り壊されましたが、大半は現在のH棟として残りました。丸みを持たせた現在の教職支援センターのスペースは、館長室、会議室でした。

 榊学長は「邦苑」2号(1981年3月)への「学長就任にあたって」という寄稿の中で、自身の学生時代を振り返りながら、図書館に寄せる期待を書き残しています。

 <これを機会に、学生たちの学習方法がより、自発的自主的になることを希(こいねが)っております。私がかつて学んだ学校では、勉強の主体は膨大な量の詩や戯曲の暗誦を含め、「宿題」でありました。宿題を仕上げるためには図書館で関連した書籍を次から次へと調べなければできないようになっていて、否応なしにライブラリーに入りますし、沢山の書物、辞書辞典類は引っ張りだこ、図書館は本当に活きていたと思います>

 榊学長は新図書館が、学生が能動的に学ぶ〝アクティブラーニング〟を促す役割に期待しました。そして、全力で取り組んだのが150人の学則定員増員対策でした。1983(昭和58)年には定員増計画が発議されました。

 

400人定員調整した橋本春子学長

橋本学長は和丘祭(1986年)で巨大髪女優の塩沢ときさんとトーク

 榊学長からバトンを引き継いだ橋本学長は愛知大学法経学部経済学科(旧制)卒でドイツのフライブルグ大学大学院を修了。市邨学園高蔵女子商業高校教員、聖カピタニオ女子高校校長を経て、1968年から東邦短大教員となりました。講師、助教授を経て1979年に教授に就任し、1984年4月から学長に就任しました。

 榊学長によって発議された定員増計画の実現は橋本学長に引き継がれ、1984年12月の文部省認可により実現しました。1985年度入試は150人から225人の新入学定員で実施されました。

 定員225人では初の入試を控えた1985年2月20日発行の「東邦学園広報」6号に、佐藤健雄企画室長が見通しを書いていました。「実入学者は当初の予定通り280人を目標にしている。(280人は学則定員の約1.24倍にあたり、この超過率は差し当たり社会的に是認される範囲と判断される)」。

 しかし、フタを開けてみると、志願者は前年の517人から激減し299人だけ、入学者は244人(超過率1.08倍)に留まりました。1966(昭和41)年の丙午(ひのえうま)生まれが受験する年であったため、全国的に18歳人口が落ち込んだためでした。

 現在は愛知東邦大学経営学部の杉谷正次教授は、この年、愛知学院大学大学院を修了し、職員として東邦短大に就職しました。杉谷教授は、「丙午で18歳人口が25%減っていることは知っていたが志願者のあまりの少なさに驚きました。学校がつぶれるのではないか、転職した方がいいのではとも思ったほどです」と苦笑まじりに振り返ります。

 ただ、丙午ショックが去った後の1986(昭和61)年度からは18歳人口は急増期に入ります。橋本学長は225人の入学定員をさらに増やすため、教員間の意見調整を図りながら1985年9月には臨時定員増175人を含む「400人定員」計画を文部省に提出しました。

複数学科視野に「商経科」発足

ピロティ形式図書館の一部は現在のH棟

 東邦短大職員となった杉谷教授は総務課に配属され、定員増申請業務にも関わりました。225人の入学定員を400人に増やすにあたって文部省担当者は、「商業科という単科の短大が、400人の金太郎あめを作るような教育をするんですか」と、専攻、教育カリキュラムの見直しの必要性を指摘してきました。「そういう行政指導なのかと思いました」と杉谷教授は振り返ります。

 東邦短大では商業科のもとに20年近く、経営、会計税務、商業デザイン、女子秘書の4コースが置かれていましたが、175人の臨時定員増が認可されて入学定員400人となった1986年度からは7コース(経営、情報、会計、税務会計、商業デザイン、女子秘書、英文秘書)に細分化しました。

 さらに、文部省側の指導を受けて、東邦短大では橋本学長を委員長とする「学科増設準備委員会」を設置、複数学科の検討を進めました。1986年9月、20年来親しんできた商業科の名称を「商経科」に変更する申請を行い、認可されました。

 1987(昭和62)年度入試からは、400人定員を商業実務専攻125人、経営実務125人、秘書専攻150人の3専攻に分けて実施されました。

 しかし、「商経科」発足に到る経緯では学内議論は沸騰しました。杉谷教授は「教授会がもめて深夜まで続き、帰宅の電車がなくなったため、総務課職員として教員にタクシーチケットを配った思い出があります。特に、7コースを3専攻にまとめるにあたっては、廃止される商業デザインコースの教員たちの反発がものすごかった」と言います。

 杉谷教授も文部省側から、「商経科にはグラフィックデザインとか芸術コースの科目はだめです」と強く指摘されたといいます。教授会では、「文部省の担当者は本当にそういうことを言ったのか」と詰め寄る教員もいました。「そうした中で、まとめ役である橋本学長からは、〝短大をつぶしてはいけない〟という使命感を強く感じた」と杉谷教授は言います。

 

最後の商業デザイン卒業作品展

最後の商業デザイン卒業制作展を紹介した「HOYU」13号(1989年)

 商経科のスタートで、商業デザインコースも含めた7コースは1987年度からなくなり、新入生たちは商業実務、経営実務、秘書の3専攻の所属となりました。しかし、実際には商業デザインコース担当だった教員たちは残り、前年に7コース制で入学した2年生たちもいたため、担当授業が行われました。

 1987年度入学の23回生神谷栄作さん(名古屋市天白区)は、「村瀬省三先生のポスター制作や広告デザイン、石田隆先生のイラストなどの授業が行われ、私はどちらも受けました。両先生の授業受けていた学生は50人もいませんでしたが、1年生の時は商業デザインコース扱いでした。男子生徒は私を含めて3人だけでしたが、ザイン事務所を開いている卒業生もいます」と語ります。

 神谷さんら23回生が卒業した1989(平成元)年3月2日から6日まで5日間にわたり、「東邦学園短期大学第21回商業デザイン卒業制作展」が愛知県美術館で開催されました。邦友会誌「HOYU」13号(1989年10月発行)には、会場の写真とともに、「デザインコース29名の作品200点余りが所せましと展示され、人々の目を奪いました。伝統ある商業デザインコースの制作展も今回が最後ということもあり、連日大勢の人が会場を訪れ、卒展の終了を口々に惜しんでいました」という記事が掲載されていました。

法人広報企画課・中村康生 

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