第72回 経営情報科の開設1992

2020年2月26日

2学科体制で445人定員に

経営情報科・高木靖彦ゼミの授業(1996年卒30回生アルバム)

 第2次ベビーブーム世代が大学や短大に押し寄せた1986(昭和61)年度から1992(平成4)年度までの7年間は受験産業界では「ゴールデンセブン」の時代とも呼ばれました。文部省は、期間を限った定員(臨時的定員)を認めることで、乗り切りを図りました。しかし、18歳人口は1992年度をピークに下降に転じ、大学関係者からは「冬時代」の訪れを危惧する声も高まっていました

 1987(昭和62)年度に175人の臨時増が認められ入学定員400人となった東邦短大でも、急減期を前に、400人定員をコンスタントに確保するため、複数学科設置の検討が進められました。

 商経科に次ぐ2番目の学科として誕生したのが、「商経科経営実務専攻」を改組した「経営情報科」でした。定員170人(恒常的定員120人、臨時的定員50人)です。

 1992年度の経営情報科開設で、東邦短大の入学定員は400人から445人(商経科商業実務専攻125人、秘書専攻150人、経営情報科170人)となり、「定員増を伴う学科増設」が実現しました。総務課長も務めた経営学部の杉谷正次教授は文部省との折衝を重ねました。18歳人口の減少期をにらむ文部省は新たな学部や学科、定員を増やすことを認めませんでした。「政令指定都市(準制限区域を含む)の認可申請を抑制する」という規制をクリアするために何度も文部省に足を運びました。

 「窮地を突破できたきっかけは通産省(現在の経済産業省)通達でした。コンピューター化がどんどん進んでおり、企業にとって情報処理技術者の養成が急務であるという通産省の見解を根拠に、〝産業界で特に要請のあったものについては認める〟という文部省の設置基準例外条項をあてはめて申請書を書き上げました」と杉谷教授は振り返ります。

 経営情報科の校舎として、1次審査パス後、6号館の起工式が1991年2月19日に行われました。1階がピロティ、2階が講義室、3階が研究室の3階建て設計です。現在のB201教室は旧6号館2階にあたります。

地球環境保全に挑む島津学長の就任

学長として初の入学式であいさつする島津学長(30回生アルバム)

 経営情報科の学科長に就任したのは名古屋大学を定年退職して1990(平成2)年に東邦短大教授に就任した島津康男氏でした。1994(平成6)年度からは学長も務めました。

 島津氏は東京大学理学部地球物理学科卒の理学博士。名古屋大学理学部地球科学科(現在の地球惑星科学科)の助教授時代には地球物理学講座の発足に関わりました。教授時代には大型計算機センター長も務めました。研究対象を比較惑星学から地球の環境保全に移した島津氏は、公共事業などの環境影響評価(アセスメント)の第一人者として知られていました。東邦短大退職後は環境アセスメント学会の初代会長も務めました。

 島津氏が名古屋大学理学部教授だった49歳当時、読売新聞(当時は中部読売新聞)が人紹介コラム欄で島津氏を紹介していました。1976(昭和51)年9月19日付の記事には、「一転、〝地球の番人〟へ」というタイトルがつけられています。

 <宇宙から一転、今は研究の焦点を地球の「環境保全問題」に絞っている。持論は「学問は個別のジャンルに分離していてはダメ」。政治、経済、化学、工学などすべて学問の情報を整理してコンピューターにぶち込む。これをシステム化して環境保全に役立てる。

 地震、異常気象、農作物の不作――国土は狂い始めているようだ。異変には目を光らせざるを得ない。島津研究室のスタッフ3人が、3か月前から愛知県西加茂郡三好町の農家に泊まり込んでいる。村人から稲や野菜の作柄、川の汚染について情報を集める。昆虫の生態の異常も調べた。

 「わかったのは、自然のナワバリに人間が土足で踏み込んではいけないということだ」。みずから「環境の現場監督」と称する。サファリを着て、いつでも研究室を飛び出せる用意をしている>(抜粋)

 東邦短大が島津氏を招いた経緯を「東邦学園広報」31号(1990年4月10日)は、名古屋大学工学部長も務めた学園評議員の榊米一郎氏(榊直樹・愛知東邦大学学長の父)の仲介があったと紹介しています。

続々新スタッフ

島津学長の就任を伝える「東邦キャンパス」47号(1994年5月)

 東邦短大では2学科体制スタートに伴い、新たな教員スタッフが続々と加わりました。後に短大、大学学長となる山極完治氏は、島津氏と同じ1990年度に敦賀女子短期大学助教授を経て教授として着任。翌1991年度には、やはり大学学長を務めた成田良一氏が富士通研究所から助教授に迎えられ、コンピューター演習やプログラム演習を担当しました。お茶の水女子大名誉教授の戒能民江氏も助教授に就任し、法学、民法、さらに「女性学」を担当しました。

 経営学部の高木靖彦教授(惑星科学)は、読売新聞に島津氏紹介の記事が掲載された1976年に名古屋大学理学部地球科学科に入学。1991年4月、名古屋大助手から東邦短大講師に就任し、自然科学概論や情報処理実務の授業を持ちました。

 1992年度には、島津氏の後任学長となる牟礼早苗氏が大阪産業大学から教授として迎えられ、経営学総論、中小企業論などを担当しました。さらに、総務課長として人材をスカウトする立場だった杉谷氏も1992年に教員に転出し、講師として情報処理実務を担当しました。

 短大後援会発行の「短大の窓」7号(1992年7月)の巻頭面で島津氏は経営情報科学科長として「二学科制の東邦短大新世紀へ」と決意を述べています。

 <最近は経営情報ばやりで、この地方の四大、短大でも続々と同じような学科ができていますが、よそとは一味も二味も違うものをと計画したのが経営情報科です。例えば、まずすべての学生が、指を見ないでキーボードを操作できる〝情報の読み書き〟を身につけることが前提です。経営とは、複雑なシステムの中で意思決定することと考えています。それはトップであろうと、部課の中であろうと同じことで、人間集団の中での行為に他なりません。そこで、情報洪水に流されず、人と情報とが、ちゃんと付き合う必要があります。これが経営情報科の基本コンセプトであります>(抜粋)

 

「短大生き残り作戦」

東邦短大のパソコン貸与を紹介した東芝の新聞広告(中日新聞)

 島津氏は経営情報科長を2年務めた後、1994年4月から原昭午学長に続く第8代学長に就任しました。初の理系出身学長となった島津氏が取り組んだのは前年度(1993年度)にまとめられた「短大生き残り作戦」の実行でした。作戦は「TANDAI  SURVIVAL  SYSTEM」を略して「TANSUS」(タンサス)と命名されました。

 「東邦学園広報」が改題された「東邦キャンパス」47号(1994年5月1日)巻頭で島津氏は、学長就任にあたっての「生き残り作戦」への決意を明らかにしています。

 <「不況」「短大冬の時代」とダブルパンチの時期に学長をお引き受けすることになり、なまなかのことではダメと覚悟しております。昨年度にまとめた、「短大生き残り作戦」の実行しかありません。それは「実務に強く、真面目」の伝統を如何に21世紀につなげるかにつき、教育内容で勝負することが必要でしょう。

 各自の能力と志望に応じて付加価値をつけてやるのが教育であり、「やる気のある学生を売れる学生に育てる」のが私学の運命であります>

 島津氏はこう指摘したうえで、「地球社会に生きる」を軸に据えた基礎科目の導入と、新入生全員にパソコンを持たせて「情報の読み書き」の浸透に全力を挙げる点を強調しました。

 1994年度から始まった新入生全員へのパソコン貸与では、東芝の「ダイナブック SS」が選ばれました。ノートパソコンでのシェア世界1位を堅守しようとする東芝は、1994年9月22日の中日新聞に「600台のサブノートパソコンが東邦短大のパートナーに」というキャッチコピーを盛り込んだ全7段広告を掲載しました。

 広告では「東邦学園短大」の校門プレートが見える正面入り口前で、東芝社員から経営情報科の女子学生たちにパソコンが手渡される写真が掲げられました。広告コピーは「パソコンをカリキュラムに加えている学校は珍しくありませんが、学校のパソコンを家に持ち帰って使わせようという所はまだ珍しいのではないでしょうか。名古屋市の東邦学園短期大学では今年から、新入生約600人全員に、パソコンを貸与して自由に使わせるようにしています――」と紹介しています。授業でノートパソコンが利用できるよう、講義室には電源も整備されました。

インターネット時代到来を実感

「地球の番人」を自認した島津氏(読売新聞)

 島津学長による生き残り作戦「TANSUS」は、学長在任中の3年間計画として実施され、島津学長は1997(平成9)年3月に退任し、東邦短大を去りました。

 島津氏の東邦短大時代について成田元学長は「TANSUSを提案された島津先生は、経営と情報の教育をどう融合するか苦労され、学内の意見をまとめようとされました。パソコンの全員貸与も島津先生の提案で、私もインターネット時代の到来を実感しました」と振り返ります。

 杉谷教授も「アセスメントが専門だっただけに、18歳人口の急減期を真剣にシミュレーションしようとしたのが、TANSUSだったのだと思います」と指摘します。

 「地球の番人」「環境の現場監督」を自認した島津氏は2019年6月21日、多臓器不全のため、92歳で死去しました。朝日新聞の言論サイト「論座」(7月17日)は、「氏は環境アセスメント学会初代会長を務められ、日本における環境アセスメント制度の導入に多大な貢献をなされた方である。たびたび沖縄を訪れ、米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設を巡るアセスを「独善、時代遅れの最悪のアセス」と評し、日本の環境アセスメント制度の形骸化を嘆いておられた」と追悼しました。

法人広報企画課・中村康生 

 

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