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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第73回

コラム⑫ 東邦初の力士 代官山

1954

更新⽇:2020年3月2日

東邦中学第2回卒業生

1968 年名古屋場所を最後に引退した代官山関

 連載71回「スチューデントホールの完成」で、東邦高校出身で初の関取となった立浪親方(元小結旭豊)の十両昇進祝賀会がスチューデントホールで開かれたことを紹介しました。実は立浪親方が高校を卒業するはるか前、すでに関取になっていた東邦OB力士がいました。東邦中学校出身の元十両の代官山(1936~2003)です。

 立浪親方の本名は市川耐治さん。東邦高校を1987(昭和62)年に卒業し、卒業した年に初土俵を経験しています。東邦中学校卒の代官山の本名は水野康宏さん。1951(昭和26)年卒の中学2回生です。1954(昭和29)年に初土俵を踏んでおり、立浪親方より33年早い角界デビューでした。

 東邦中学校は1946(昭和21)年4月、旧制東邦商業学校を引き継ぐ旧制中学校として開校。学制の切り替えで1948(昭和23)年度から新制の東邦高校とともに新制東邦中学校として再スタートしました。水野さんは1936(昭和11)年3月2日生まれ。新制東邦中学の最初の入学生でした。

 同窓会「東邦会」名簿によると水野さんら中学2回生の卒業生は105人。6割が東邦高校に進み1954(昭和29)年に5回生として卒業していますが、水野さんは高校には進みませんでした。。

 中学時代に水野さんと同級生で、東邦高校に進んだ名古屋市天白区の村井邦久さんは、水野さんが代官山として角界入りしたことを知っていました。「身長はあまり高くはなかったが体格はよかった。目立たない子で、同窓会に出てくることもなかったので代官山を知っている卒業生は少なかった」といいます。

 1968(昭和43)年の名古屋場所を最後に引退するまで14年間の土俵生活。十両在位も2場所だけ。幕下時代が長かった代官山は静かに土俵に別れを告げていました。

新聞記事先行で角界入り

廃業した「びっくりぜんざい」を訪れた家族(2007年撮影)

 水野さんの息子である東洋大学社会学部教授の水野剛也(たけや)さんが、「父・代官山康宏」をウェブページで紹介していました。メールで代官山がどんなきっかけで土俵人生を歩むことになったか尋ねてみました。「興味深いお尋ね、感謝します。自分を含む家族の記憶を総合すると、父・康宏は以下のような経緯で角界入りしたようです」。剛也さんからていねいなご返事をいただきました。

 <東邦中学を卒業後、現在の名古屋市東区代官町にある実家のお好み焼き屋「びっくりぜんざい」(1990年代まで営業)で手伝いをしていたところ、「体格が良い」との評判を耳にした出羽海部屋関係者から、稽古を見にこないかと誘われた。相撲の世界に進む決意を固めていたわけではなかったが、「代官町の水野くん、出羽海部屋に入門」という趣旨の新聞記事が掲載されてしまい、なりゆきで角界入りすることになった。母の記憶によると、「どうせ入るなら、大きな部屋がよい」という理由で、出羽海部屋に入ることを決めたという。

 しこ名の「代官山」は、実家のある「代官町」に由来する。すでに「水野」という力士がいたことから(通常、修行時代は本名をしこ名とする)、親方から「どこから来た?」と尋ねられ、「代官町です」と答えたところ、その場で「代官山」に決まった。

 得意技は「喰らいつき」で、小兵であったため、あらゆる手段を駆使して大きな相手に立ちむかった。下積み時代はケガなど苦労が多かったが、付け人として長く仕えた元関脇・出羽錦忠雄(引退後は年寄・田子ノ浦)に大変可愛いがられ、兄弟のような関係は終生続くことに務めた

 十両を2場所勤めた後、当時の横綱・佐田の山晋松(出羽海親方)と同時に引退することを決め、その後は出羽海部屋でちゃんこ長を勤めた。通常、元関取が現役を終える際には部屋内で断髪式をおこなうが、生来のさっぱりした性格から、近所の床屋でちょんまげを落として周囲を驚かせたというエピソードもある。他方、何事にも几帳面だった>

 水野さんの実家だった「びっくりぜんざい」は同級生の村井さんも知っていました。代官町は学校からも近くにぎわっていた町で、「びっくりぜんざい」は、東邦中学、高校の多く生徒たちにも知られていた店だったそうです。

 

取材を断られた東邦高校新聞部

東邦高校新聞部時代の思い出を集めた山崎さんのアルバム

 東京、大阪、九州についで本場所として名古屋場所が始まったのは1958(昭和33)年からです。それまでは金山体育館で準本場所が開かれていました。東京での初場所終了後、3月の大阪場所に向かう力士たちが2月に名古屋に立ち寄って興行する場所でした。

 名古屋場所が愛知県体育館で開催されるようになったのは1965(昭和40)年からで、それまでは冷房施設もない金山体育館での開催でした。初の名古屋場所で代官山は幕下80枚目でした。東邦高校の新聞部だった2年生の山崎宗俊さんら3人は、「先輩訪問」として代官山にインタビューしようと、出羽海部屋が同居していた春日野部屋に乗り込みました。

 当時の春日野部屋の看板力士は横綱栃錦でした。「代官山関の後輩です。きょうはよろしくお願いします」と山崎さんらがあいさつすると横綱は「ごくろうさん」と、笑顔で応じてくれました。横綱は、たばこを一服しながら、山崎さんらのインタビューに応じた後、部屋の幕内力士たちを自ら紹介してくれました。

 しかし、肝心の代官山のへの取材はできませんでした。代官山は、先輩力士たちの食事の準備や掃除など忙しく動きまわっていました。「まだ取材を受ける身分ではないので」と断られました。写真撮影もやんわり断らました。

 

「これまで出世したのも皆さんのおかげ」

14年間の土俵生活では幕下時代が長かった代官山。名古屋場所で

 山崎さんら新聞部員たちは3年生になった翌年の1959(昭和34)年の名古屋場所で、「先輩訪問」に再チャレンジしました。代官山は東幕下54枚目に上がっていました。写真なしですが、「東邦新聞」33号(7月21日)2面に「再度代官山を訪ねて」という記事が掲載されました。

 <さる7月11日、我々新聞部員3人は、下前津にある長栄寺の出羽海部屋に居る先輩代官山を再度訪ねた。代官山関は以前と比べると非常に大きくなり、ひげも立派なものになったと冗談を飛ばしていたが、ただ、身長が伸びないのがたまにキズとこぼしていた。

 なお、今場所の成績は何枚か上がったにもかかわらず、立派な星で、3勝3敗の五分である。前に一度訪ねたことがあるので、かなり親しく話すことができた。

 先輩の望んでいる相撲部はまだ建設されていないが、それに興味を持っていればきっと出来ると思う。また、先輩は「これまで(幕下まで)出世したのも皆さんの陰の力があったの一言です」と語った>

 代官山関は母校に相撲部が誕生することに期待を寄せていたようです。新聞部の正顧問は理事長でもあった下出貞雄校長でした。この記事が掲載された「東邦新聞」33号の1面トップは下出校長が44日間のソ連、中国視察を終えて帰国した記事です。7月14日、羽田空港で帰国した下出校長を出迎えた山崎さんたちが下出校長にインタビューした記事も盛り込まれています。名古屋で出羽海部屋を訪れたのは7月11日ですから、3日後の羽田取材でした。

 

カレーうどんにどんぶり飯の「ちゃんこ」

十両に昇進し後援会から贈られた化粧まわし

 「父は2003(平成15)年に心筋梗塞で亡くなりました。残念ながら、生前に東邦中学時代の思い出などは聞いていません。母校から連絡があれば喜んで話をしたはずです」

 剛也さんはメールにありし日の代官山関の写真とともに、自身が父親の相撲人生を偲んで新聞に書いたコラム記事を添付して送ってくれました。2013年6月20日「新潟日報」生活面に掲載された「甘口辛口」というコラムで、「ちゃんこもいろいろ」というタイトルがつけられていました。

 <突然ですが、「ちゃんこ」はそもそも「食事」を意味することをご存じですか?元十両の力士で、引退後は相撲部屋で料理長をしていた父親からよく聞かされた話です。

 「ちゃんこ=鍋」と思い込んでいたでしょう?無理もありません。多人数の大食漢の腹を満たすため、いきおい食事のほとんどは巨大な鍋料理になるからです。

 しかし、本来の意味からして、今日のちゃんこは「カレー」や「スパゲティ」も可能なのです。外食だってあり。関取や親方が気分を変えて、なじみのレストランに足を運べば、それもちゃんこです。

 番付の低い若い衆などは、今日のちゃんこは「なし」の場合も。下積み時代の父は、しばしば兄弟子たちに鍋の汁まで食べ尽くされ、仕方なく近所の食堂に駆け込んだといいます。

 定番メニューは、カレーうどんにどんぶり飯。まず、うどんすすり、残ったカレー汁をご飯にかける。店がサービスで大盛りにしてくれて、100円でおつりがくる。そんな「ちゃんこ」だったそうです>

 自分の作った「ちゃんこ」にもありつけず、黙々と耐えた下積み時代。代官山関が亡くなった2003年は東邦学園が創立80周年の年ですが、校訓「真面目」の精神が伝わってくるような相撲人生でした。

法人広報企画課・中村康生 

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