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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第75回

コラム⑬ 元球児たちの墓碑銘

1998

更新⽇:2020年3月19日

戦前の名選手・長尾芳夫氏が逝去

慶応の長尾さん(後列左)と早稲田の森さん(前列中央)

 1998年、99年に発行された学園広報誌「東邦キャンパス」に、戦前の東邦商業学校時代、甲子園を舞台に輝いた東邦球児2人の訃報が相次いで掲載されました。訃報をもとに、元球児たちの卒業後を追ってみました。

 「東邦キャンパス」66号(1998年7月18日)には、「戦前の名選手・長尾芳夫氏が逝去」という訃報が、中日新聞の記事とともに掲載されました。長尾さんは2回目の全国制覇となった1939(昭和14)年の第16回センバツ優勝チームの主将でした。

 <戦前の東邦野球の黄金時代の主将・長尾芳夫氏(商13回)が6月9日、肺炎のため半田市の病院で永眠された。77歳。同氏は半田市の出身。昭和12年から14年の東邦野球部の中心選手として甲子園大会には春3年連続、夏も1回、計4回出場(1塁手・外野手)。強靭な精神と冷静な判断力の持ち主で主将も務めた。春の大会では昭和12年はベスト4、同13年準優勝、同14年には圧倒的な強さを発揮して2度目の優勝を達成。当時は個人表彰制度もあり、長尾選手は2年連続して優秀選手に。また昭和14年にはMVPに相当する「委員賞」が東邦チーム全員に贈られ、併せて同選手には生還打賞(打点)、ファインプレー賞が贈呈された。

 この頃の東海地区は野球王国と称され、本校のほか、中京、享栄、愛知商、岐阜商などがひしめきあい、中京の夏の3連覇と併せて、「春の東邦」の昭和14年の全国制覇は、その頂点ともいうべきもの。「大会通算73安打、59得点、1・2回戦の2試合連続全員安打」など空前の大記録は、金属バット時代を迎えた今日でも破られていない。

 長尾氏は本校卒業後、慶応大に進学。さらに戦後は社会人野球の愛知産業(東邦・中京出身の有力選手らで編成)で活躍。その後、電電東海(NTT東海)に入り、初代監督、東海北陸社会人野球連盟理事など歴任。アマチュア野球一筋の人生だった。郷土の野球発展に尽くされた功績に敬意を表し、安らかなご冥福を祈りたい>

 

岐阜商出身の森さんと出場した「最後の早慶戦」

「最後の早慶戦」試合前の長尾さん(前列右から6人目)と森さん(前列左から3人目)

 長尾さんは東邦商業13回生として1940(昭和15)年に卒業、慶応大学に進学し、神宮球場での東京6大学野球リーグでも活躍しました。1941(昭和16)年12月、日本は太平洋戦争に突入。野球は〝敵国スポーツ〟となり、1943(昭和18)年4月には東京6大学野球連盟は解散に追い込まれました。同年10月2日には学生の徴兵猶予停止が公布され、臨時徴兵検査が始まりました。

 学徒出陣を前に、「早慶壮行野球試合」の名のもとに「最後の早慶戦」が同年10月16日、早稲田大学野球部の練習場である戸塚球場で行われました。出場したのは早稲田9人、慶応11人の20人の選手。試合開始に先立ち、ホームベース前で記念写真が撮られました。長尾さんの姿もありました。前列右から6人目の「KEIO」のユニホーム姿です。前列左から3人目の「WASEDA」のユニホーム姿は、この写真を所蔵していた森武雄さんです。

 森さんは岐阜商業(現在の県立岐阜商業高校)出身。1936(昭和11)年に夏の甲子園で岐阜商が初優勝に輝いた時のベンチ入りメンバーです。東邦が2度目のセンバツ優勝を果たした時の決勝戦の対戦校も岐阜商でした。長尾さんは6番ファースト、森さんはのセカンドでトップバッターでした。

 「野球王国」と言われた東海地区では、東邦商業と岐阜商業は数々の名勝負を残しました。長尾さんと森さんは同学年。鳴海球場、甲子園球場、神宮球場と舞台を移しながら良きライバル同士でした。

 

「海ゆかば」の大合唱聞きながら涙

 森さんの日記を収めた『学徒出陣』(早稲田大学大学史資料センター編)には、森さんの「最後の早慶戦」を終えた時の森さんの心境がつづられていました。

 <緊迫した戦時下で、一ケ月後の入隊が決まっていた私達にとっては、本当に之が最後であった。試合は一方的に10-1で大勝したが、早慶戦に勝った喜びは全然なかった。神宮球場のリーグ戦での勝利の感激とは全く異なったもの。試合終了後、期せずして起こった「海ゆかば」の大合唱を聞きながら、私は長い間野球に打ち込んできて本当によかったなあという一種の満足感にひたり、野球人として最後の早慶戦に出場できた喜びをかみしめていた。それは戦地におもむく悲壮感はなく、唯とめどなく流れでた涙は何であっただろうか。今、想い出そうとしても分からない>

 森さんは、森さんら早稲田の野球部員3人と、学生服姿の長尾さんら慶応野球部2人が収められた写真も残していました。長尾さんと森さんの親交は学生時代も続いていたのでしょう。

 森さんは満州に出征し、終戦後はシベリアで2年間の抑留生活を送りました。帰国後は川崎紡績で選手、監督として活躍。引退後の1953(昭和28)年春には、全日本大学野球選手権大会に初出場した名城大学野球部の監督として神宮球場への里帰りを果たしました。「最後の早慶戦出場 森武雄さん死去」の死亡記事が中日新聞に掲載されたのは2011年2月4日。1月30日、急性心不全のため、自宅のある一宮市の病院で90歳の生涯を終えました。

 長尾さんは名古屋の陸軍で終戦を迎えました。亡くなる4年前に刊行された「東邦野球部史」で、自らの野球人生を振り返りながら、戦火に散った東邦球児たちを偲んでいました。

 <私の野球生活30年において、高校、大学、社会人を通じて東邦時代の春の甲子園大会に優勝したことが最大の思い出になっています。第1回の優勝当時の立谷順市、岡田福吉、渡辺利吉、長坂信一等の諸先輩は戦死等で今は亡き人となっています。我々の第2回目の優勝メンバーの中では服部一郎二塁手だけが戦死した。彼の優秀なことは法政大学に進学するや2年目で3番を打ったほどの好選手であったことからもわかる。当時の選手は9人全員が優秀選手賞に輝いたほどで粒がそろっていたと思います>(原文の選手名は姓のみ)

 

「ツーアウトからの人生」安田さん逝く

安田さんの著書表紙に使われた東邦球児を描いた絵馬

 「東邦キャンパス」70号(1999年4月25日)は、長尾さんより1学年上の12回生で、球児であり、東邦高校野球部監督でもあった安田章さんを追悼しています。安田さんはこの年2月22日、79歳の生涯を終えました。

 安田さんは東邦商業時代、長尾さんとともに1937(昭和12)年と1938(同13)年の2回センバツに出場。1938年大会で東邦は、準決勝で森さんがいた岐阜商を6―2で下しましたが、決勝で中京商に0-1で敗れ、準優勝に終わりました。

 1938年大会まで東邦は初出場以来5年連続でセンバツ出場を果たしました。しかし、1938年夏、初の夏の甲子園出場決定まであと1アウトまで迫りながら悪夢のような逆転負けを喫しました。

 当時、夏の甲子園に出場するには鳴海球場での東海予選で優勝しなければなりませんでした。中京商を下して愛知代表となった東邦は、東海予選決勝で岐阜商と対戦。9回表を終え2-0と東邦がリードし、岐阜商が最終回の攻撃を迎えました。

 その後に起きた悪夢のドラマを安田さんは自著『ツーアウトからの人生』(中日出版本社)に書き残していました。

 <二死走者なし。両チームは明暗絶対の局面を迎えた。スタンドは急に騒がしくなり、狂乱の歓声にベンチの声もとだえがちだ。優勝を意識してはならないはずなのに、勝利の女神が彷彿と私の胸に去来した。この千載一遇の機会を逃してなるものかと中堅の場よりベンチを見つめた。当時の東邦は高木良雄監督。私たちの先輩であり、弱冠22歳(学生)。熱血漢である反面、冷静沈着な人だったが、この時ベンチより立ち上がり、大声でセンターバックを両手を挙げて指示している。当然、長打を警戒しての作戦行為である>

 しかし、岐阜商は四球と内野エラーで二死2、3塁と食い下りました。岐阜商の打席に入ったのは9番セカンドの森武雄さんでした。森さんの打球はショート後方に上がりました。一瞬、遊撃フライかと思われましたが、ボールは意外に伸びてセンター前に落ちるヒットに。2走者が帰り岐阜商が同点に追いつきました。さらに、2塁に向かう森さんを刺そうと捕手から送られた球は悪送球となり、前進していた安田さんの頭上を越えて芝生を転々。森さんが一挙に生還し、信じられないような大逆転劇が起こりました。

 <燃え尽くした3時間の死闘の後には涙の勝者と敗者がありました。「野球は最後の最後の瞬間まで・・・」「野球はツーダウンから・・・」の強烈な尊い教訓を身を持って思い知らされた試合でした>

 安田さんは、東邦商業を卒業後、陸軍航空士官学校に進み、飛行時間は3000時間余に及びました。戦後は、1949年から8年間、東邦高校で教鞭をとるかたわら野球部監督も務めました。

友の遺影抱き甲子園スタンドから応援

陸軍飛行学校教官時代の安田さん(著書より)

 「東邦キャンパス」70号では、学園参与でやはり球児であり監督だった高木良雄さん(商業9回生)が、「安田章氏を偲んで」と書きつづっています。

 <刎頸(ふんけい)の友、安田章(識人)君が去る2月22日亡くなった。長い闘病生活の後の最後だった。安田君は戦時中、飛行将校であった。死ぬ前に「一度、鹿児島の知覧に行きたい」と口癖のように言っていた。多くの同僚や部下が特攻で亡くなったという思いからである。それがやっとこの1月18日、19日に実現した。旅行社の人が添乗しての3人の旅であった。

 ところが、鹿児島空港に着いてから、車中で安田君は嘔吐した。そのため、旅先ではむろん、帰名してからも急に食欲が減退し、時々医者に通っては点滴を打ってもらうという生活が続いた。やっとかなった知覧行ではあったが、安田君は命を縮める旅となった。

 死後は遺言通りの自分の角膜を提供し、献体もした。安田君らしい終焉だった。心から安田君の冥福を祈りたい>

 安田さんは、東邦高校を退職後は安田識人(のりひと)の名前で絵馬づくりに打ち込みました。1985(昭和60)年からは春夏の甲子園出場全校に記念の絵馬を送り、球児たちを応援し続けました。

 70号のトップ記事は朝倉健太投手らを擁し、東邦高校が3年ぶり23回目のセンバツ出場を果たし開会式で堂々の行進をした記事です。東邦は1回戦で平安高校と対戦、エース朝倉が打ち込まれ1―5で敗退しました。東邦側応援スタンドには、元東邦野球部長の和田悟さんとともに、安田さんの遺影を抱き、母校に声援を送る高木さんの姿がありました。高木さんは2012年4月に死去。93歳でした。

第1回センバツ優勝監督だった学園顧問 

八事球場で行われた第1回センバツ優勝監督だった石井さん

 「東邦キャンパス」81号(2001年7月8日)には「石井元評議員が永眠」という訃報が掲載されました。大同特殊鋼を世界最大級のメーカーに育てた大同特殊鋼名誉会長で、元日経連副会長の石井健一郎さんが97歳で亡くなりました。

 <去る4月29日、石井健一郎元評議員が永眠された。同氏は元大同製鋼の社長で、昭和51年日本特殊鋼、特殊製鋼の3社を合併で今日の大同特殊鋼を誕生させることに尽力された。昭和35年から平成3年まで、評議員を務められ、長年にわたって本学園に助言をいただいた>

 社名は変遷しますが、大同特殊鋼の初代社長は東邦学園の創設者である下出民義です。民義の長男で、東邦商業の校長を務めた下出義雄は4代目社長ということもあって、石井さんは31年間にわたって評議員を務め、東邦学園を応援し続けました。評議員を退いた後の1993(平成5)年に迎えた学園70周年では「学園顧問」として「70年史」に祝辞を寄せました

 石井さんの訃報記事に毎日新聞は「第1回センバツ優勝監督 石井健一郎さん死去」という見出しを付けました。石井さんは元球児で、戦前の高松商業時代は野球部主将でした。名古屋高等商業学校(名古屋大学経済学部の前身)に進みましたが、2年生だった1924(大正13)年4月、名古屋市の山本球場(後の八事球場)で8校が参加して開催された第1回センバツ(全国選抜中等学校野球大会)で、母校高松商業の監督を務め、優勝戦で早稲田実業に勝ち、母校を歴史に残るセンバツ第1回優勝校に導きました。

 東邦学園「70年史」に寄せた石井さんの祝辞です。

 <私が東邦学園と関わりを持たせていただくようになったのは30年以上前のことです。この頃は東邦も再建途上にあり、貞雄先生のもとに飛躍に向かって力強く前進していました。その活力は施設の充実、学園規模の拡大、短期大学の開設、平和が丘への学園総合化など、時代に適応しながら学園を整備し、今日の発展へと繋げて来られました。「真面目」を校訓として、幾多の試練を乗り越えて、この記念すべき年を迎えられましたことは非常に意義深いものと感じています>

 東邦商業が産声を上げた翌年の第1回センバツ優勝監督でもある石井さんにとって、東邦商業の長尾さん、安田さん、高木さん、岐阜商業の森さんら全ての元球児たちが、愛すべき後輩たちだったに違いありません。

 参考文献 『1943年晩秋 最後の早慶戦』(早稲田大学大学史資料センター、慶応義塾福澤研究センター共編、教育評論社)

法人広報企画課・中村康生 

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