検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第78回

米西海岸から着任した国際交流委員長

2012

更新⽇:2020年5月20日

「君も真面目に生きる気になったか」

A棟前でゼミ生たちと記念写真(2007年3月卒の3回生と)

 東邦学園大学では開学2年目の2002年、海外4大学と姉妹校提携を結びました。東邦短大時代からの姉妹校であるエベレットコミュニティカレッジ(EvCC、米国ワシントン州)に加え姉妹校は一挙に5校になりました。

 初の国際交流委員長を務めたのは2001年4月に就任したばかりの岡部一明助教授(後に教授、経営学部長)です。岡部氏は1950年栃木県生まれ。1979年にカリフォルニア大学バークレー校自然資源保全科卒業後、日米でフリージャーナリストとして活動し、NPO団体にも関わりました。

 岡部氏と東邦学園大学の橋渡し役をしたのは津田正夫元教授です。1998年のNPO法(特定非営利活動促進法)成立を前に、NHKから東邦短大教授に就任した津田氏がアメリカのNPO事情を視察に訪れた際、案内してくれたのが岡部氏でした。これが縁で、大学新設にあたり教員スタッフとしての就任要請が行われました。

 岡部氏の東邦学園大学での初仕事は、着任した4月2日、来学したEvCC関係者11人への応対でした。東邦短大は、毎年語学研修のための学生を送り込んでいたEvCCと1990年4月に友好提携協定を締結。スチューデントホールが完成した1988年からはEvCCの学長、理事ら関係者一行が来名し、入学式参列が恒例化していました。

 東邦学園大学も開学した2001年4月1日、EvCCと改めて交流協定を結びました。来学したEvCC一行に、岡部氏が、自分がサンフランシスコから赴任したばかりだと説明すると、「君も真面目に生きる気になったか」と米国流ジョークの洗礼を受けたといいます。

 岡部氏はこの時のやりとりを、東邦学園「90年誌」(2014年発行)に掲載しようと書き残していました。掲載はされませんでしたが、「参考に」と送ってくれました。

 <サンフランシスコはヒッピーや対抗文化の生まれた街で、EvCCのあるワシントン州など真面目な土地柄から見ると浮かれた感じがする。何かと存在感の大きいカリフォルニア州への反発もあって、アメリカの他地域ではカリフォルニア・ジョークが盛んだ。浮かれたサンフランシスコを去り、ワシントン州と同じくらい真面目な日本に来ることにしたのは立派だというわけだ。私は苦笑するほかなく、周りが爆笑に包まれる。その光景を楽しそうに見ていた当時の下出保雄理事長の笑顔が記憶に残る。一行はその後の4月6日の本学初の入学式に出席し、花を添えてくれた>

5大学と姉妹校に

リンカーン大学(ニュージーランド)への短期留学(2010年)

 2002年に新たに姉妹校となった4大学とEvCCを、岡部氏は元国際交流委員長として「90年誌」に以下のように紹介しています。

リンカーン大学(ニュージーランド)

 ニュージーランド南島の最大都市、クライストチャーチの近郊(カンタベリー郡リンカーン村)に位置し、ニュージーランドにある8つの国立大学の一つ。1878年に農業大学として設立され、現在は商学、コンピュータ科学などを含め3学部11学科1別科の総合大学。「学生総数約3500人のうち1000人が60以上の異なる国から来ている留学生」であり、ニュージーランドでは最も国際化の進んだ大学として知られる。

雲南大学(中国)

 中国の雲南省の省都・昆明市にあり、中国88の「国家重点大学」(エリート大学)の一つ。1922年設立の総合大学で、学生数は約4万人。学科は76に及び、中でも民族学、生態学、専門史、微生物学の4学科は国家重点学科に指定されている。留学生は1986年から受け入れ始め、現在は日本人を含め350人余りの留学生が学んでいる。現在、昆明市南の呈貢県に広大なキャンパスをつくり順次移転中である。

イエテボリ大学(スウェーデン)

 スウェーデン南西部の港湾都市イエテボリ市(ヨーテボリ、イェーテボリなどとも表記)にある総合大学。1891年設立。スウェーデンの6つの国立大学の一つであり、スカンジナビア全体で1、2位を争う有名校とされる。学生総数は学部生だけで3万9000人におよび、授業の中にはディベートや企業訪問が頻繁に取り入れられている。本学はこの教育学部内教育学科と提携した。イエテボリ市には自動車会社ボルボの本社もあり、職業教育その他この方面の研究が盛ん。

ミドルセックス大学(イギリス)

 ロンドンの北に位置する学生数2万4000人の大学。うち外国人学生は約6000人。「ミドルセックス」はロンドン周辺地域のかつての古い郡名で、中部サクソン人の民族名に由来する。1873年設立のホーンゼイ工芸短大など3校で1973年にミドルセックス高等専門学校を設立、さらに他の教育機関を合併して1992年にミドルセックス大学となった。5週から30週の留学準備英語クラス、1年間の留学生別科プログラムがある。全世界に21の海外事務所をおき国際展開に力を入れる。2000年以降、ドバイとモーリシャスに海外分校を開校し、インド、中国での分校設立の予定も。

 エベレット・コミュニティー・カレッジ(EvCC、アメリカ)

 短大時代からの交流協定校であるが、四大開学に伴い新たに協定を結びなおした。アメリカには、実学を重視した公立短大コミュニティ・カレッジの制度が普及している。EvCCはワシントン州エベレット市(シアトル郊外)に位置し、1941年に設立された同州で最も古いコミュニティ・カレッジ。社会的ニーズから東邦と同じく四大への転換を迫られたが、短大のまま、他の公立四大と提携してキャンパス内で四大教育を提供するユニークな制度を開発した。東邦短大と1986年から交流があり、1990年に正式な交流協定校となっている。

 

人的交流を頼っての提携校探し

自転車と地球儀がある岡部研究室(2011年発行の『邦苑』32号)

 岡部氏は「90年誌」に自らが関わった4大学との交流協定について、「国際交流は人が基本。新たな提携校も、それまでの本学教職員の人的交流に頼って探す戦略をとった」と書き残しています。

 リンカーン大学との橋渡し役は元東邦高校校長の伊藤時雄氏(2003年4月から~2008年3月まで理事長)でした。東邦高校はクライストチャーチ市のシャーリーボーイズ高校と姉妹校関係にあり、活発な交流を行っていました。そのつてで同校出身者が国際関係の責任者になっているリンカーン大学に白羽の矢が立ったのです。間に入ってくれた伊藤氏は2002年5月、単身同大学に乗り込み、協定をまとめてくれました。

 雲南大学との交流のキーパーソンは森靖雄経営学部長でした。森氏は日本福祉大学教授時代から雲南大と長い交流がありました。時間をかけたやりとりの後、森学部長と平尾秀夫副学長が2002年3月に雲南大学を訪問し協定を結びました。外国語学院(学部に相当)、経済学院とそれぞれ個別の提携となるはずでしたが、先方の意向が最終段階で変わり、雲南大学全体の提携となりました。雲南大学では副学長の林超民教授が署名し、同大とはその後も活発な研究者間の交流が続きました。

 イエテボリ大学と協定締結は、田村豊助教授(現教授)を始めとした本学の自動車産業研究者と、レナント・ニルソン助教授などイエテボリ大学研究者との長い研究交流の蓄積があったからでした。2002年3月、研究交流のために本学を訪問したニルソン助教授との間で最終的な協定の調印が行われました。協定書を持ち帰り後、日本代表者の署名を得て、同大教育学部教育学科との協定が成立しました。

 ミドルセックス大学との提携は一楽信雄教授と先方コンピュータ科学部門のノーマン・レベル教授との交流関係に依拠して進められました。2001年7月9日、東京を訪れていた同大学コンピュータ科学部の研究ディレクター、アン・ブランドフォード氏と、一楽教授、岡部国際交流委員長が話し合いを行い、同25日に、マイケル・ドリスコル同大副学長(実質学長)、ノーマン・レベル・コンピュータ科学部長、スティーブンG・W・リー東アジア事務所ディレクターが本学を訪れ、提携に向けた協議が行われました。その後も調整が続き、翌2002年6月にミドルセックス大学マーケティング担当のマリー・キルゴア氏が来学し最終調整。同7月、丸山惠也学長と岡部委員長がミドルセックス大学を訪問し、協定調印を行いました。同大学からはドリスコル副学長、レベル副学長代理兼コンピュータ学部長ら4人が出席し、日英関係について活発な意見交換の場ともなりました。

アメリカ人留学生の受け入れ

大学としては初のアメリカからの留学生8人(2002年9月)

 東邦短大のアメリカへの語学留学は1977(昭和52)年からスタートしました。留学先は1981年まではカリフォルニア大学バークレー校、1982年から1986年まではワシントン州エドモンドコミュニティカレッジ、同年からEvCCとなり現在に至っています。

 東邦短大が1991年からほぼ隔年で行っていたEvCCの「日本語及び日本企業研究プログラム=NBI(Nippon Business Institute)」研修生の受け入れは東邦学園大学に引き継がれました。開学して初の受け入れとなった留学生たちは、2002年9月3日に来日した8人のアメリカ人学生たちで、10日間にわたって滞在し、学内研修を行いました。東邦短大時代からの通算では6回目の来学でしたが参加学生8人は最多人数でした。

 アメリカ人学生たちは日本人家庭にホームステイしながら、東邦学園大学で空手、書道、茶道などの日本文化を体験。名古屋城、徳川美術館、さらには足助、高山なども訪れ日本の歴史的遺産に触れました。七宝焼き、ノリタケカンパニーなどものづくり現場も体験。学生たちは、東邦学園大学のボランティア学生の協力も得て、無事、研修日程を終えました。

 2002年のNBI研修生受け入れは夏季休暇中の9月に行われましたが、それ以降は授業が行われている6月前後に行われるようになり、学生間交流が活発化しました。

 

再び海外へ

ロサンゼルスで体験的に調査・取材した著書と岡部氏

 津田氏は、岡部氏は国際交流のほか、「発足したばかりの大学に学生スポーツを根付かせる面で大きな功績があった」といいます。岡部氏自身も「研究室に入ってすぐ目につくのはツーリング車(自転車)でしょう。毎日これで八事から通っています。エコ・健康志向です。でも、本当はこれに留まらず、バスケ、フットサル、卓球、マラソンなど、毎日学生と一緒に体力を振り絞っています」(後援会誌『邦苑』32号)と書き残しています。

 岡部氏は2010年度から2012年度まで第3代学部長を務めました。初代学部長の森靖雄教授(2001年度~2006年度)、2代目の長南仁教授(2007年度~2009年度)に続いての就任でした。学部長時代の2011年3月には東日本大震災が発生。岡部氏は担当していた後期「ボランティア論」の授業で学生たちにボランティア支援を呼びかけ、総勢23人で10月23日から4日間、宮城県石巻市で復興支援の汗を流しました。

 学部長任期を終えた2013年、岡部氏は大学を退職し、再び、海外に旅立ちました。同窓会「邦友会」に寄せた岡部氏の「退職の言葉」です。(抜粋)

 <70歳の定年まであと7年ありますが、余力のあるうちに次の人生を始めようと思い、わがままを許して頂きました。本学就任以前はアメリカでフリージャーナリストをしており、またその生活に戻るつもりです。今度はまず、躍動著しいアジアを目指したいと思います。

 教員をすることの良い面は、常に若い人からエネルギーを頂けることです。勉学、スポーツ、海外研修、ボランティアと学生諸君と活動するうち、身も心も若返りました。そして教員をすることの悪い面は、必要以上に若返ることです。本当はあと2、3年でお迎えが来るかも知れないのに、人生まだ4、50年あるような気になる。青雲の志に突き動かされ、まったく新しい人生をゼロから始める野望に燃えています。国と国との間の対立が深まる東アジアですが、とりあえず中国あたりで日本語教師を始められれば。新生の躍動著しいミャンマーも魅力的ですね。卒業生の中には、海外で活躍中の方も多いと思います。遅まきながら私も皆さんに加わり、その内アジアかどこかの横町で再会しましょう>

 岡部氏は2013年から2015年まで時事通信ハノイ支局に勤務しました。岡部氏のブログによると、その後も南米を経てニューヨークに滞在(1年半)。ヨーロッパを経て2019年から米西海岸サンフランシスコで生活しています。

 

コロナ禍カリフォルニアに帰れず

 2020年4月。本来ならサンフランシスコにいるはずの岡部氏ですが、実は名古屋市に滞在していました。正月、一時帰国したものの新型コロナウイルスの拡大で米国に帰る便がなくなり、名古屋の自宅で〝巣ごもり生活〟を余儀なくされていました。「ぜひ、愛知東邦大学時代の話を聞かせてほしい」と電話でお願いし、4月中旬、お会いする約束をしたのですが、残念ながら断りのメールが届きました。

 <電話を切ってから頭を抱え込みました。どうみても私には荷が重すぎる。どうもノーとは言えない性格でついついOKしてしまいました。まことにすみませんがキャンセルして下さいませんか。私はアメリカから帰ったばかりで無我夢中。一教員として目の前のことをこなすのに精一杯でした。こんな私がなぜ学部長に選ばれたのか今でもわかりません。「カリフォルニアくずれ」の私でもなんとかできたのは国際交流関係の仕事だけでした。探したら90年誌のために書いた国際交流の記録が出てきましたので、それを添付します。参考になれば幸いです――>。

 岡部氏には数多くの著書がありますが、学部長就任の前年である2009年8月にはカリフォルニア州ロサンゼルスの自転車交通事情を体験的に調査・取材、『車社会を自転車で in ロサンゼルス』(アマゾン電子出版、2015年)という本も書いていました。

法人広報企画課・中村康生 

    この連載をお読みになってのご感想、情報の提供をお待ちしております。 

   法人広報企画課までお寄せください。

   koho@aichi-toho.ac.jp

 

一覧に戻る

学校法人 東邦学園

〒465-8515
愛知県名古屋市名東区平和が丘三丁目11番地
TEL:052-782-1241(代表)