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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第79回

ゼミ仲間も応援した後継への道

2004

更新⽇:2020年6月15日

伝統技能「竹屋町」の家業を継ぎたい

3代目の父幸夫さん(右)と4代目を継いだ隆将さん

 「地域を担う人材育成」を掲げ、経営学部地域ビジネス学科を設置して開学した東邦学園大学では入学時から学生10数人に1人ずつ教員がつく「演習システム」(ゼミ)体制が整えられました。2年生からは、「企業経営」「地域経済」「経営システム」「会計」「起業・後継者育成」の5つの専門分野(履修モデルコース)が設けられました。学生たちは100ほどある科目の中から講義を選び、専門性の高い知識を身に着けていく仕組みでした。

 開学4年目の2004年5月26日、「私たちは社長を目指します」と銘打ったの「事業プラン・後継者発表会」が開かれました。ゼミ単位で17件の発表が行われましたが、安保邦彦教授(ベンチャービジネス論)のゼミからは2組が発表を行いました。3年生の坪井隆将さん(名古屋大学教育学部付属高校卒)もゼミ仲間9人の応援を受けながら、「竹屋町裂(きれ)」と呼ばれる伝統技能に関わる家業を継ぐ決意を報告しました。

 竹屋町裂は、もともと京都の竹屋町で作られていた裂(きれ)。竹屋町縫紗(ぬいしゃ)と呼ばれる縫い方で作られていたことから、竹屋町裂と呼ばれるようになりました。古くから仏具や茶道具などに珍重されて、僧侶の袈裟(けさ)にも使われています。

 坪井さんの実家は竹屋町裂の製造・卸を扱う「坪屋」(名古屋市中川区戸田)でした。坪屋は初代の坪井亀次郎が大正年間に竹屋町で修行し名古屋で創業。2代目喜一から3代目である坪井さんの父幸夫さんに引き継がれました。「竹屋町」とも称される竹屋町裂について、喜一が編集した『竹屋町縫紗作品集』(1992年)には、美術史家でもある徳川美術館館長の徳川義宣氏が「竹屋町寸言」という解説を寄せています。坪屋が同美術館所蔵品の修復などにも関わっていたためです。「竹屋町寸言」の抜粋です。

 <竹屋町はその名の通り、京都で生まれた我が国独特の繊細な縫紗裂地である。あまりにも繊細優美で通常の衣服地には向かない代わり、茶懸け用の軸物表具裂、茶器の仕覆裂等として無上の裂として珍重された。だが、あまりにも繊細で精緻な裂であるがために、今日では用途は限られ、縫紗の技術の継承も危ぶまれていた。その数少ない技術継承者坪井喜一氏の作品集がこのたび刊行された。私たちの祖先が拓き伝えた〝日本の美〟の世界に対する認識が、これを機会に深められ広まられて、さらに広く力強い流れとなって次の世代に継がれて行くことを切望してやまない>

 「事業プラン・後継者発表会」で坪井さんは竹屋町裂について、「発祥の地である京都ではすでに途絶えてしまっており、全国でこの技術を残しているのは名古屋のわが家(坪屋)のみとなってしまいました」と、父親を継いで4代目継承への決意を語りました。

ゼミぐるみで振興策

2004年5月開催の「社長を目指します」報告会と安保教授

 坪井さんは安保ゼミで、「竹屋町」の現状を説明しました。竹屋町裂の製造は、布地に金糸や銀糸などを用いて模様を刺繍していきます。図案を型紙にし、型紙をもとにして布地に下絵を描き、下絵に従って刺繍をしていく作業で、全ての工程が手作業。坪屋では職人である年輩女性10人がそれぞれ自宅で手作業に取り組んでいました。

 販売方法はデパートの美術画廊などでの個展販売が多く、仏具店や個人ギャラリーなどにも納入しています。ただ、特殊な業種のため、新たな客を得るのは非常に難しく、さらに、見た目には類似した格安商品が中国などアジア諸国から入ってきて一般美術品など売られており、「竹屋町」の本物の良さを理解してもらうことが年々困難になっていました。長引く不況で取引先の倒産も相次いでいました。

 「父の後を継ぐにしても、売り上げの長期低迷、職人の後継者不足、新規顧客の開拓など、様々な課題があります。これからどうやって乗り切っていくか安保ゼミの皆さんの力を貸してください」。坪井さんを応援しようと2004年度、ゼミでは様々な調査を行いながら、アイデアを出し合いました。

 4月15日 坪井さんによる「坪屋」の紹介。仏壇、墓石などの中国製品が安く売られている現状を新聞記事などで勉強。

 5月18日 坪屋紹介VTR、京都の刺繍VTR鑑賞。

 5月26日 「私たちは社長を目指します」発表会で「坪屋」改革プラン計画発表。

 6月17日 徳川美術館を訪問し、江戸時代の世界を学ぶ。

 6月24日 坪屋を訪問して制作工程を見る。

 7月1日 京都・藪の内家(茶道家元)のVTR鑑賞。

 7月20日 「中間報告会」が行われ、でこれまでの活動を丸山惠也学長らに報告。

 ~夏休みの課題 ゼミ生が「坪屋の発展」について考えレポートとしまとめる。

 9月30日 竹屋町の振興策を議論しまとめる。

 10月20日 名古屋市緑区の有松絞りの老舗である竹田嘉平衛商店を訪問。

 7月20日に行われた中間報告会では、丸山学長から、「有松絞りとのコラボを検討してみてはどうか」との助言もあり、ゼミ生たちは安保教授とともに、有松絞りの竹田嘉平衛商店(名古屋市緑区)を訪ね、絞り作家の竹田耕三氏から示唆にとんだ話を聞くことができました。

 安保ゼミを始めとする経営学部の取り組みは2004年12月24日、名古屋テレビ(メ~テレ)の30分番組「未来の社長育てます~東邦学園大学の挑戦」として放映されました。

 

卒論に込めた決意

竹屋町振興策も発表された2004年12月の第2回ゼミナール大会

 安保ゼミが最終的にまとめた坪屋の振興策は7点でした。

 ①アンテナショップを開設し、商品紹介と展示を常設する②ホームページを開設し、既存需要家の要望を探り、若い層の新規顧客を開拓を図る③ロゴマークを設定し会社の印象を強く訴える④既存の顧客カードを見直し新たな需要開拓を図る⑤有松絞りとの共同作品づくりの検討⑥犬山の国宝「如庵」での茶会で見本展示し茶人の需要を探る⑦価格表とモデル品を収録したパンフレット制作。

 坪屋の振興支援策に取り組んだ10人のゼミ生たちの1年に及んだ活動について、安保教授は「仲間の家業をどうするのかについて考える機会を持ったことは、世の中を知るうえで随分と勉強になったと思う。茶の世界を知るために信長や秀吉を学んだり、江戸時代の知識を得るために徳川美術館を訪れたりもした。知の世界が広がったⅠ年だったと思う」と指摘しました。

 坪井さんは、2006年3月の卒業にあたって、ゼミ活動を振り返りながら「たけやまち坪屋の振興策」という卒論を残していました。A4版で9枚にまとめた卒論の「おわりに」の要旨です。

 <取引先の会社経営者の後継者が少ないのも事実であり、私と同世代の後継者が減少している。事実、現在の代で店を閉めるといった所も数店あり、私としてはとても悲しく思う。数少ない伝統技術をぜひとも後世に残したい。今回の卒業論文を一つのきっかけとして坪屋の振興策を実行し、それをぜひとも成功させ、坪屋の復活を早く迎えたいと思っている。これから先、自分が坪屋の後継者となる日までの第一段階となりそうな土台づくりが出来たと思っている>

 

新たな屋号で4代目に

4代目としての決意を語った坪井さん(名鉄百貨店美術サロンで)

 坪井さんは東邦学園大学を卒業後、目指していた通りに坪屋の4代目を継承したのか、継承していたとしたら大学時代の「後継者育成」の教育は実際にどれくらい役立ったのか。ネット上で「坪屋」や「坪井隆将」のキーワードで検索してもヒットせず、やや時間はかかりましたが、坪井さんと連絡が取れ坪井さん父子から話を聞くことができました。

 訪れたのは6月12日、名鉄百貨店10階にある美術サロン。幸夫さんの個展である「数寄の縫織遊び展」(6月10日~16日)の会場で、竹屋町裂など美術裂表装品や色紙短冊などの作品が出品されていました。ただ、いただいた2人の名刺には「坪屋」の名前はなく「坪井美術」とありました。

 「『坪屋』はブランド名の一つとし、屋号を『坪井美術』に変えました。2015年1月からです。屋号を変えた段階で一応代替わりということで、私が4代目になりました。父もまだ頑張っていますので私の4代目はまだ名前だけですが」と隆将さんが説明してくれました。2人の名刺には「徳川美術館認定 竹屋町縫元・美術裂織元」の肩書と、坪井幸夫、坪井隆将の名前がありました。

 「4代目を継ぐことを目指した夢はかなえられましたね」という質問に、隆将さんは、「ちょっと時間は経っていますがかなえましたね」と卒業してからの14年間を振り返ってくれました。

 隆将さんは大学を卒業後、名古屋のスポーツ用品店の外勤の仕事をしながら家業を手伝ってきました。しかし、リーマンショック(2008年)に続いて起きた東日本大震災(2011年)。「この先どうなるのだろうということが続き、後継者になるとは言っていたものの、本当にやれるのかと心配でした。現実の厳しさに迷った時期も当然ありました。ただ、いろんなジャンルの世界を見ていくうちに、家業を継ぎたいという思いは消えることはありませんでした」と振り返ります。

 中川区にあった坪屋は8年ほど前にあま市七宝町に引っ越しました。女性職人さんたちが高齢で引退する時期だったこともありました。職人さんが手掛けていた仕事一部は幸夫さんが担っています。

 「今回の個展タイトルの〝数寄の縫織〟とは父のことです。数寄(すき)=風流人といった感じで少しかっこよく言ってみました」。スポークスマン役が身についている感じの隆将さんは、「うちは企業でもないし特殊な職種。学生時代に振興策として提案してもらったホームページとかアンテナショップとかには縁遠い、特殊な世界の顧客が多く、理想と現実のギャップをかみしめています。でも、安保ゼミの仲間たちは1年間、よくぞ一緒に考えてくれたと思います。懐かしさと感謝の思いでいっぱいです」と笑顔で振り返ってくれました。

 

CBCクラブ文化賞の受賞

名鉄百貨店美術サロンで開かれた「数寄の縫織遊び展」の案内状

 坪井さんは父幸夫さんとともに「竹屋町」の伝統技能の振興に努めました。2020年2月、その努力が報われる日が訪れました。「一芸一能に黙々と従事し、人知れず東海地方の文化に貢献している人たちを発掘して顕彰する」という中部日本放送の文化事業「第61回CBCクラブ文化賞」に坪屋3代目の幸夫さんが選ばれたのです。1960年の第1回以来、幸夫さんは98人目の受賞者となりました。

 「茶人大名の古田織部が、中国から招いた職人に京都竹屋町で行わせた独特の刺繍仕事が竹屋町縫い。茶掛け用の軸物表具裂、茶器の仕覆裂等として珍重されてきました。初代が大正年間に京都の竹屋町にて修行し名古屋にて創業、この伝統ある刺繍の技法を受け継ぎ、文化財等の修復にも携わる全国でも貴重な職人、それがあなたです」。幸夫さんの受賞理由です。

 同賞は「くちなし章」とも言われています。「口に出して大仰に伝えられなくても、その一芸一能の芳しい香色は世の中に認められるところとなる」という意味合いがクチナシの花に重ねらるからでした。幸夫さんにもクチナシの花を図案化した七宝焼きの徽章(きしょう)が贈られました。

 贈呈式は2月3日、名古屋市中区丸の内の名古屋銀行協会内にあるホテルオークラレストランで開かれました。幸夫さんは受賞のあいさつの中で、「作品のうわべだけを見ないで、奥深く見てください。そうしないと感動は伝わりませんから」といった趣旨のスピーチをしました。

 式には、緊張しどうしの幸夫さんを支えるように、4代目を継いでいた隆将さんが付き添いました。幸夫さんのスピーチについて隆将さんは「父は緊張しまくっていました。掛け軸などの絵の周りに表現された裂(きれ)の素晴らしさもぜひ見てくださいということを言いたかったんですよ」と補足してくれました。

 「年寄りなので、倒れたらいかんと思って、息子について来てもらったが、周囲は私より息子の話を興味深く聞いていました」。幸夫さんも4代目の長男隆将さんが誇らしそうでした。幸夫さんは69歳、隆将さんは36歳。4代目としての隆将さんの挑戦はこれからが本番と言えそうです。

法人広報企画課・中村康生 

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