語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス
第80回
硬式野球部の誕生
2001
更新⽇:2020年6月29日
創部に加わった13人

東邦学園大学では開学した2001年度、スポーツ系15、文化系11のクラブが誕生し登録されました。部員13人の硬式野球部(以下野球部)の監督に就任したのは入試広報室職員だった袴田克彦さん(現特任事務次長)です。東邦高校野球部OB(41回生)で、1989(平成元)年、東邦高校が戦後初のセンバツ全国制覇を飾った時の3年生マネジャーでした。
現在のような強化指定クラブ制度もなく、全ての部活動はゼロからのスタート。野球部の創部も新入生たちが自発的に名乗り出ることに期待するしかありませんでした。産声を上げた13人の野球部でキャプテンを務めたのは名古屋市立山田高校出身の杉山裕一さんでした。学生時代までは玉野姓でしたが、卒業翌年の2006年に結婚して杉山姓になりました。現在は自動車部品メーカー株式会社スギヤマ(愛知県蟹江町)の取締役営業部長で、インドネシアに設立した「スギヤマ・インドネシア」の社長もしています。杉山さんが野球部発足時の思い出を語ってくれました。
「僕は公立高校の野球部副主将格でキャッチャー。大学では野球をするつもりはありませんでしたが、体育のソフトボールの授業などで、自分と同じ高校球児たちが何人かいることを知りました。東邦高校で野球部だったという学生もいることが分かり、強豪私立の東邦OBもいるなら、野球部を作って一緒にやってみたいという気になりました。杉谷正次先生のゼミ生が多かったこともあり、杉谷先生が部長を引き受けてくれたのだと思います」
杉谷部長、袴田監督のもとに集まった13人の野球部1期生です。(敬称略)
▽投手 永原敬規(豊明)、田内誠(東邦)▽捕手 玉野(杉山)裕一(山田)▽内野 南條延明(静岡商)、小林大誠(東邦)、加藤雄一郎(東邦)、小島敬裕(名古屋大谷)、白石展康(東邦)▽外野 長縄仁(春日井南)、村松大輔(東邦)、宮崎貴夫(東邦)、横道紀彦(東海工)▽マネジャー 岡本千佳(名古屋商)
13人の中には高校には野球部がなくラグビー部だったという部員もいましたし、6人いた東邦高校出身者も、2人が軟式野球部出身、硬式野球部出身の4人も正選手の経験はありませんでした。女子マネジャーを買って出た岡本さんは東邦短大1年生で野球経験はゼロでした。
晴れ舞台初打席での涙

キャンパスには野球の練習場はありませんでした。野球場、サッカー場がある日進グランドができるのは1期生たちが卒業後の2007年です。杉山さんたちは昼休みに、現在のS棟横にあったコンクリートのテニスコートでの守備や投球練習、C棟が出来る前にあったゴルフ練習場では、ゴルフボールを使いトスバッティングの練習もしました。
それでも東邦高校野球部の東郷G(グラウンド)を、高校野球部の練習が始まるまで使わせてもらえたのは大きな励みになりました。高校野球部は阪口慶三監督。平成元年のセンバツ優勝時のマネジャーだった袴田さんが、6人の東邦高校出身も含めて旗揚げした大学野球部を応援してやろうという心遣いとも言えました。発足したばかりで練習用ボールも足りない状態でしたが、杉山さんによると、高校野球部にはプロ入りしたばかりの朝倉健太(中日)選手、岡本浩二(阪神)選手から練習用ボールの差し入れがあり、その一部も回してもらうことができました。
東郷Gはあくまで使わせてもらう立場。高校生たちを乗せたスクールバスが到着するまでには整備終えて明け渡しました。その後は、事前に利用手続きをし、ナイター設備のある日進市総合運動公園に移動をして練習を続けました。袴田監督は大学職員としての仕事を終えた後、練習場に駆け付けノックのバットを握りました。
愛知大学野球連盟への加盟手続きが認められ、開学初年度ながら2001年秋季リーグから4部リーグ出場が決まりました。実は当時の4部では連盟史上、異例の状態が起きていました。4部リーグ参加校は愛知大学、愛知工業大学、名城大学、名古屋大学、東邦学園大学、愛知文教大学、名古屋産業大学の7校。東邦、愛知文教、名古屋産業以外の4校はかつて1部リーグ所属でしたが、運営方針を巡る連盟の分裂騒ぎがあり、4部リーグからの再出発を余儀なくされていたのです。
このため、本来なら4部リーグでは参加校グラウンドが試合会場となるところを、1部校が使用していた岡崎、豊田、春日井など2部、3部に比べたらはるかに設備の整った市民球場での試合が続きました。9月1日、瑞穂球場での開会式に続く翌2日の、東邦学園大学の記念すべきリーグ戦初の試合は春日井市民球場で行われました。相手は名古屋産業大でした。
東邦のトップバッターは村松。「1番センター村松君。東邦高校出身」。名前は場内アナウンスだけでなく電光掲示板にも表示されていました。監督として初采配を振るった袴田さんは、「村松は泣いて帰ってきた。東邦高校では3年間、一度も公式戦の打席に入ったことがなかったから感動したんです。2番バッターの南條も名門の静岡商業出身ですがマネジャー。どの選手たちにとっても、初めて体験する晴れ舞台でした」と振り返ります。杉山さんも「みんな野球ができる喜びや感動でいっぱいでした。僕もジーンと来るものがありました」と懐かしそうでした。
初出場の2001年秋季リーグ戦で東邦は旧1部4校には完敗したものの4勝4敗の5位でした。2年目のシーズンとなった2002年春季4部リーグは、2001年秋に優勝した愛知大学と2位の愛知工業大学が昇格したため、名城大、名古屋大、東邦学園大、愛知文教大、名古屋工業大、名古屋産大の6校でのリーグ戦となりました。名城大が優勝、名大が2位で東邦は3位に終わりました。
「新聞」で応援した野球部長

2002年秋季4部リーグで、東邦学園大学は初優勝に輝きました。旧1部4校が全て昇格したため、リーグ戦は東邦学園大、名古屋工大、大同工業大(2009年から大同大)、愛知淑徳大、名古屋市立大、愛知文教大、名古屋産業大の7校で行われました。東邦は部員がまだ2年と1年生だけでの優勝でした。しかも入れ替え戦に勝って3部昇格も決めたのです。
秋季リーグ閉会式では、2年生の小林大誠(東邦高校)が4部リーグ最優秀選手とベストナインに、やはり2年生の宮崎貴夫(同)が4部打撃賞とベストナインに、1年生の寺沢翔太(飯田長姫高校)がベストナインに選ばれ連盟から表彰されました。
袴田監督は後援会誌『邦苑』24号(2003年3月)にこの〝快挙〟を書き残しています。
<創部2年目でのリーグ優勝、リーグ昇格は、昭和24年発足の愛知大学野球連盟史上においても快挙である。1、2年生の若いチームが、このような成績を残せたのは、恐らく昨シーズンまで愛知大、愛工大、名城大、名大といった旧1部強豪校との試合の中で、彼らが勉強し、また厳しい練習に耐えて努力したからであろう>
野球部長の杉谷助教授(現教授)は毎試合の結果を「野球部新聞」にまとめ、学内周知に努めました。マネジャーの岡本さんが記録した試合データ、自らが撮影、執筆した写真や戦評をパソコンで編集した新聞は、部員たちによって学内の掲示板など各所に張り出されました。大学ホームページがまだ〝速報〟態勢がなかったこともあり、杉谷部長の発行する〝新聞〟は力強い応援メディアでした。
2002年4月14日発行の4部春季リーグ速報には「球場まで応援に行こう!」という記事も掲載されています。
<東邦大野球部の応援よろしくお願いします。次の試合日程は左記にとおりです。4月27日(土)午後1時開始 東邦大×名城大(岡崎市民球場)、4月28日(日)午前10時開始 東邦大×名城大(岡崎市民球場)>
杉谷部長は発行された「野球部新聞」を部員の家族たちも見られるよう、CDRディスクに収め、卒業時に部員たちに配りました。
杉山さんによると、杉谷部長は自宅が近かったこともあり、東郷Gや日進市運動公園での練習のあった寒い日は、寸胴鍋に入れた豚汁とガスコンロを持ち込んで部員たちを激励してくれました。
神宮で見た全国大学野球に衝撃

2002年秋の4部リーグ優勝、3部リーグ昇格。わずか2年目での〝快挙〟を杉山さんは、「野球が出来る喜び、野球をやらせてもらえる環境への感謝。それが袴田監督の教えてくれた野球でした。〝袴田野球は間違っていない〟と確信しました」と言います。
しかし、袴田監督は、「東邦野球部はさらなる飛躍を目指さなければならない。これからはもう野球が好きだからでは勝てない」という思いを強くしていました。3部リーグから2部リーグへ、さらに頂点である1部リーグへと駆け上がらなければならない階段を見据えてのことでした。
杉山さんは、「袴田さんが、ミーティングで〝明日から俺のことを監督と呼べ〟ときっぱり言いました。それまでは仲良しチーム感覚で〝袴田さん〟とか〝ハッカー〟と呼んでいましたから、袴田さんの強い決意を感じました」と言います。
11月17日、日曜日の東京・神宮球場。スタンドには袴田監督と東邦野球部員18人(2年生13人、は1年生5人)の姿がありました。「大学野球の頂点をかけた全国レベルの野球がどんなものか、しっかりと目に焼き付けてこよう」という袴田監督の提案で、第33回明治神宮野球大会2回戦、亜細亜大学(東都大学野球連盟代表)対九州国際大学(九州3連盟代表)の試合を観戦するためです。
袴田監督は東邦高校から進学した青山学院大学でも野球部のマネジャーを務め、神宮球場での東都大学野球リーグ戦を体験していました。2002年秋の同リーグ優勝校として神宮大会に乗り込んできたのは残念ながら青山学院大ではなく亜細亜大学でした。
亜細亜大学のエースは4年生の木佐貫洋(巨人、オリックス、日本ハムを経て現在巨人コーチ)。春の第51回全日本大学選手権では、決勝で東京6大学代表の早稲田大学と対戦し、和田毅(ソフトバンク)と投げ合って2対1で勝利し、亜細亜大学を優勝に導きました。そして4年生最後となった第33回明治神宮野球大会でもエースとして投げ続け、東邦の野球部員たちが見守った九州国際大学戦も1-0で勝って決勝戦に進み優勝。亜細亜大学に春秋連覇での大学日本一をもたらしました。
「同じ大学野球とは思えないほどすごかったです。動き一つひとつが全然自分らの野球レベルと違っていました。ベンチからグラウンドに出るまでも全力疾走。ノックでも、ボールが何個あるのかと思うほどでした」と杉山さんはため息まじりに振り返りました。
部員18人の往復新幹線代は、大学教職員たちが応援を込めて出し合ってくれました。杉山さんによると神宮から帰った部員全員が、本部棟前に整列し、丸山惠也学長らにお礼を兼ねて報告を行いました。
最終試合に集まった1期生たち

初の3部リーグで迎えた創部3年目の2003年春季リーグから、東邦野球部は地獄を見ることになりました。3学年までそろったとはいえ格上チーム相手に2勝10敗で最下位。入れ替え戦でも敗れ再び4部に降格となりました。しかし、秋季リーグ戦は踏ん張り2位で終了、入れ替え戦でも何とか3部への再昇格を果たしました。
そして杉山さんらが4年生となり、最後のシーズンとなった2004年。東邦は春季3部リーグでまたも苦杯をなめ4部に降格。4年生たちにとっては文字通り学生野球最後となった秋季4部リーグも4位で終わりました。
4部リーグからもがいての3部浮上は5期生となる新入生たちが加わる2005年度シーズン以降に託されることになりました。2005年の春季リーグ戦では2002年以来2度目の4部リーグ優勝を決めたものの3部リーグに戻ったのは2007年春。2部リーグ入りを果たしたのは2010年春季リーグで、創部から10年目のことでした。
杉山さんら1期生のラストゲームは東海市にある大同工業大学グラウンドで行われました。4年間、最後まで残ったのは13人中マネジャーの岡本さんを含めて5人でしたが、就職活動などで引退していた4年生も、途中で大学を去った元部員たちも、選手の家族たちも応援に駆けつけてくれました。学生コーチを引き受けてくれていた小林選手も袴田監督の計らいで代打で登場、4年間の野球部生活を締めくくりました。
杉谷教授の保存写真データの中に、試合終了後に撮影された1期生たちの写真がありました。最後まで残ったユニホーム姿の4年生4人(杉山、加藤、小林、宮崎)、東邦短大を卒業後、大学3年生に編入、4年間、マネジャーを務めあげたジャージ姿の岡本さんの笑顔もありました。
写真は後列左から南條、田内、玉野(杉山)、村松、横道、小林、永原。前列左から加藤、長縄、小島、岡本、宮崎の皆さんです。
『邦苑』26号(2005年3月)で袴田さんは杉山さんら野球部1期生たちにエールを送っていました。
<彼らは間違いなく東邦学園の新しい歴史を築いた。第1期生として野球部を創ったことを誇りに思ってほしい。4月には野球部の第5期生がまた入部してくる。第1期生がそうであったように、共に泣き、共に笑い、共に汗を流すだろう。そして同じようにこう伝えたい。真剣勝負ができる喜びを感じろ。かけがえのない仲間に感謝しろ。親に感謝。マネジャーに感謝。そして大学に感謝>
杉山さんは2012年から2017年まで、「スギヤマ・インドネシア」を立ち上げて軌道に乗せるためインドネシアに滞在しました。トヨタ系各社や商社など進出企業には、甲子園や社会人野球を経験した駐在員も多く、ソフトボールでの親睦交流が盛んでリーグ戦もあるほどでした。「僕らもお客様のチームに入れていただき、ソフトボールを通して仕事のチャンスもいただくこともできました。大学で袴田監督のもとで4年間野球をやっていなかったら出来なかったでしょうね」。杉山さんはしみじみと振り返りました。
法人広報企画課・中村康生
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