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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第81回

部活動支えた教職員

2005

更新⽇:2020年7月8日

26クラブが誕生

久し振りに母校を訪れ、二宮さん、松井さんと思い出を語ったアヤさん

東邦学園大学が開学した2001年度、26のクラブ、サークルが誕生しました。1年生だけの大学生たちに同じキャンパスの東邦学園短大短大生(1、2年生)たちも加わりましたが、先輩もいない、クラブ運営のノウハウもない学生たちをサポートしたのは大学教員や職員たちでした。

連載第80回の「硬式野球部の誕生」では、入試広報課職員だった袴田克彦監督の奮闘ぶりを紹介しましたが、袴田さんのほかにも多くの教職員たちが学生たちを支えました。1人で3部の顧問に就任し、部活以外でも良き相談相手となった職員もいましたし、1年生男子部員たちを親身になって叱咤激励し続けた職員もいました。

後援会誌『邦苑』23号(2002年3月発行)に掲載された創部26クラブ・サークルと顧問(監督など指導者)、部員数は以下の通りです

【スポーツ系】

▽硬式野球部(袴田克彦)13人(大学12、短大1)▽空手道部(小林信之)2人(大学2)▽サイクルスポーツ部(新村健)2人(大学2)▽男子バスケットボール部(三浦寿美、増田貴治)10人(大学3、短大7)▽女子バスケットボール部(谷川智代)8人(短大8)▽フットサル(サッカー)部(小野隆生、増田貴治)23人(大学4、短大19)▽バドミントン部(二宮加代子)32人(大学11、短大21)▽陸上部(二宮加代子)1人(大学1)▽ゴルフ部(袴田克彦)5人(大学5)▽スキー部(西村弘之)4人(大学4)▽バレー部(杉本宗夫)7人(大学6、短大1)▽ボウリング部」(山本正彦)2人(大学2)▽フリースタイル部(二宮加代子)11人(大学10、短大1)▽ビリヤード同好会(深谷和広)23人(大学23)▽アウトドア同好会(阪口将史)19人(大学11、短大8)

【文化系】

▽簿記部(山本正彦)17人(大学6、短大11)▽茶道部(所智子)2人(短大2)▽軽音部(成田良一)10人(大学7、短大3)▽旅とカメラを楽しむクラブ(平尾秀夫)6人(短大6)▽乗り物研究部(津田正夫)3人(大学3)▽ベンチャークラブ(安保邦彦)4人(大学4)▽サークル計(後千代)4人(大学4)▽スポーツ応援観戦同好会(柴田千登勢)6人(短大6)▽クラシック音楽同好会(中山孝男)1人(大学1)▽つり同好会(小林信之)1人(短大1人)▽漫画同好会(井上秀次郎)4人(大学4)

 

フリスタ部も旗揚げ

S棟地下フロアが練習場だったフリスタ部。中央黒帽子がアヤさん

「フリースタイル部」(現在のFREE STYLE部)も開学間もなく旗揚げされました。初代部長で、現在、「HONEY WAXX AYA」(ハニーワックスアヤ、以下はアヤさんと表記)の名前で名古屋を中心にダンス活動をしているアヤさんが久し振りに母校を訪れ、顧問だった現在総務課長の二宮加代子さんと、アヤさんの1学年下でフリスタ部とも交流があった現在入試広報課職員の松井慶太さんも交え創部当時を語ってくれました。

アヤさんは母親が音楽が大好きだったこともあり3歳ころからダンスを始め、桜花学園高校時代も、授業後は名古屋市中区にあるダンススタジオ「スタジオZOO」に通い続ける日々でした。東邦学園大学の入学者297人中女子は37人だけ。9割近い男子学生に圧倒されたそうでしたが、アヤさんは入学前からダンスを通して知っていた梅原美智子さんや開米宜隆さんら男子学生たちとサークルづくりに動きました。「ダンスサークルをつくりたいんだけど一緒にやる?」という誘いに、「経験ないけど踊ってみたい」と応じる学生たちが相次ぎました。

顧問は、学生課職員だった二宮さんに引き受けてもらい、ヒップホップ、ガールズヒップホップ、ロック、グレイキングなど、〝オールジャンルOK〟という気持ちを込め、「フリースタイル部」を立ち上げました。登録部員は短大生1人も含め11人でした。

練習拠点はS棟地下。現在は吹奏楽団が練習に使用しているフロアです。「私とかウメ(梅原さん)、ダンス経験のあるノリ(開米さん)がダンスを教えたりしているうちに、部員たちはどんどんダンスが好きになり、はまっていきました。授業が終わるとS棟地下に直行する部員が増え、練習の中身も濃くなっていきました。大学祭の時はメチャクチャ練習したせいか、和丘祭の舞台はものすごい人気でしたよ」。アヤさんは懐かしそうに振り返りました。

翌2002年度の部員は14人(大学生のみ)。顧問の二宮さんが、後援会誌『邦苑』24号に活動を報告していました。

<我が東邦のフリースタイル部は、ジャンルにこだわらず、自分たちのスタイルでダンスを目いっぱい楽しんでいるクラブです。本学の大学祭出場はもちろん、他大学の大学祭やイベントにも参加して活発に活動しています(イベントでは優勝経験もあり!)。2001年は夏に合宿を行い、大学祭に向けて寝ずの練習をしていました。その成果は大学祭での彼ら、彼女らのステージを見た方はもうお分かりだと思います。最高のステージでした。これからさらに磨きがかかりバージョンアップすること間違いないでしょう>

 

ダンス人生まっしぐら

創部以来、大学祭の華だったフリスタ部のダンス(2002年度和丘祭)

名古屋の都心ビジネス街には夜遅く、ストリートダンサーたちが集まる人気の練習スポットが2か所あります。伏見の日土地ビル前と栄の中区役所前です。午後9時、10時ごろから社会人も含め若者たちが建物のガラスをミラー代わりに練習に汗を流します。アヤさんも高校、大学時代は中区役所前広場で「セクシー系だけどパワフル」なダンスを磨きました。

アヤさんは大学3年生のころから「スタジオFORCE」でキッズを対象にダンスを教え始めました。大学を卒業するころには教えるレッスンは徐々に増え始め、自分のチームを作り活動の幅を広げ始めました。「就職活動はどうするの」と心配する二宮さんには、「私、ダンスで食べていくから大丈夫だよ!」と胸を張りました。

1期生たちの卒業式が行われた2005年3月16日、袴姿で式典に参加したアヤさんは二宮さんにディズニーキャラクターの封筒に入れた手紙を手渡しました。(抜粋)

<にのさん!今日は卒業式だよ。東邦に来て4年も経っちゃったんだネ。1年生の時がついこないだだと思うもん。ayaにとって、この4年間はすごく充実していたんだ。一番大きかったのは、大学へ来て、自分の時間があった中で、danceで生きていくことを決意したこと。ゼミの子やまわりが就活したりした中、いろいろ迷いもあったけど決めれたんだ。世間から見たら大学→就職ってのが普通なのかも知れない。でもayaはこれしかないんだ。イベントとレッスンと昼のバイトも始めて、この1、2年、本当に忙しい毎日で、一息ついて考える時間もなかった。卒業も近く、自分を見つめなおしたりしてたんだ。今、ayaがいるこの環境も自分の位置も全部自分で作りあげてきた。ayaはこの大学に通うことができて本当に良かった。最高の4年間でした。これから先もどんどん前を向いて進んでいきます>

卒業後のアヤさんは、名古屋を拠点に活動する人気ヒップホップグループ「HOME MADE家族」を始め、様々なアーティストのバックダンサー、メディア出演など活動エリアは全国に広がりました。一方、名古屋では最大規模の「ストリートコンテスト ダイナマイト」の審査員も10年続けました。

ダンススタジオでのレッスンのほか、名古屋市内の他大学ダのダンスサークルでの指導、生徒のプロデュース、イベント開催等プロのダンサーとしての活動にのめり込んでいました。「紹介する時は本名ではなくHONEY WAXX AYAでお願いします」とこだわるのは、「自分のブランディングをしていかないと厳しい世界ですからね」と語りました。

大学を卒業して15年。アヤさんは5歳の娘サナちゃんのハッピーマザーです。名刺にはダンサー、コレオグラファー(振り付け)、チームプロデュース、イベントオーガナイザー、ヨガインストラクター、メディカルアロマアドバイザーとたくさんの肩書が並びます。

二宮さんが、「私は現場で直接指導しているわけじゃないけど、最近のフリスタは2年連続で全国舞台出場だよ」と、FREE STYLE部の「マイナビDANCE ALIVE HERO’S 2020 FINAL」への連続出場を紹介すると、アヤさんは「19年前の創部から、歴史はしっかり引き継がれているんだ」と嬉しそうでした。

アヤさんのホームページとインスタグラムアカウントです。
https://honeywaxxaya.net
インスタグラム @honeywaxxaya

サッカー部創部の2期生たちを励ました三浦さん

サッカー部の男子部員たちと三浦さん(2004年8月)

サッカー部(男子)が産声を上げたのは開学2年目の2002年4月です。「サッカー部がないのなら、自分で創ってやろう。俺がこの大学の伝説をつくってやると闘志がわいてきました」。先頭に立ったの望月崇伸さんです。小学2年生からサッカーを始め、名古屋グランパスユースでプレー。日進西高校から開学2年目の東邦学園大に入学しました。

「初代監督には大学職員で東邦高校時代にサッカー部員だった増田貴治さんにお願いし、部員集めに奔走しました。幸運だったのはサッカー経験のある松井慶太君、江崎誠君(2人とも卒業後は愛知東邦大学に職員として就職)という力強い同期生が創設メンバーに加わってくれたことです。1年生だけで約20人が集まり船出することができました」と振り返ります。

グラウンドもない、サッカーボールもそろわないまま体育館やS棟横テニスコート(現在はC棟クラブ室付近)での練習からのスタートでした。8月になって、尾張旭市や守山区の市営、企業グラウンド、中学校校庭を借りてのグラウンド練習に取り組むことができました。送迎バスもなく、移動は全て車に乗り合うなど自前でした。

9月から始まった愛知県学生リーグ戦(東海3部リーグ)。初戦は愛知大学名古屋校に2-5で敗退。愛知学院大Bに0-6、名古屋外国語大に1-3と敗れ3連敗。しかし、4戦目の名古屋市立大に3-2で勝利をおさめ初勝利。部長の小野隆生教授は「東邦キャンパス」86号(2003年1月10日)に「その時の選手たちの嬉しそうな顔を忘れることができない」と書いています。小野教授はさらに、「総務部職員三浦寿美さんの献身的な協力のもと、ユニホームの用意、連盟への登録が進んだ」とも書き残しています。

三浦さんは男子バスケットボール部監督のほかに新たに顧問を引き受けたサッカー部では女子部員がいなかったため、実質的な女子マネジャー役もこなしました。硬式野球部など発足間もない運動系クラブに対し、三浦さんは支援を惜しみませんでした。

三浦さんは1994(平成6)年に東邦短大を卒業(28回生)、母校に職員として就職しました。短大生時代はバスケットボール部マネージャーだったこともあり、大学職員になってからも学生目線での気配りを忘れませんでした。「失敗したらやり直せばいいのよ。つまづいたら立ち上がればいい。スタートラインは自分で引けばいいんだよ」と学生たちにエールを送り続けました。

硬式野球部が発行していた「野球部新聞」にならってサッカー部も新聞を作成、学内掲示板の張り出しました。「サッカー部の活動を学内に発信していこう」という三浦さんの提案でした。編集を担当した松井さんは、「試合が終わるごとにパソコンを使って発行しました。おかげでサッカー部の活動を部外に紹介することができました」と言います。

三浦さんの急死と悲しみの衝撃

三浦さんを偲ぶ桜の木には今も記事パウチが掛ります(扇形校舎前)

2期生の4年生部員にとって2005年9月4日から始まった第4回愛知学生サッカーリーグ後期戦は学生時代最後のリーグ戦となりました。しかし、初戦に大同工業大に3-0で勝ち、9月18日の第2戦を前にした11日、部員たちに悲しい衝撃が走りました。三浦さんが急死したのです。休日を利用して職員仲間らと山に登ることになっていた三浦さんは、集合場所だった大学近くの駐車場で心室細動という心臓のけいれんに見舞われ、32歳の若さで帰らぬ人となりました。

「東邦キャンパス」98号に、サッカー部主将の高橋禎人さん(2年生)は悲しみを書き残しています。(抜粋)<私たちサッカー部は創部以来、2部昇格を目標に掲げ、全力で駆け抜けてきました。初代創部メンバーの引退をかけた大事な大会になっていたのですが、大会中、大切な人を失いました。創部以来、ずっと支援してただいた三浦寿美さんです>

サッカー部は残り2試合に全勝しましたが、10月の決勝トーナメントで準優勝に終わり、4年生たちは最後の戦いを終えました。2部リーグ昇格を決めたのは2007年度。創部から6年目のことでした。

B棟扇校舎前には、寿美さんの家族から贈られた桜の木が、緑の葉を広げています。木には仲の良かった同僚職員によって、毎年、新しいパウチカバーに収められた新聞記事コピーが架けらています。母親の房代さんが綴った手紙を「人は生きた」というコラムで紹介した2006年4月11日「中日新聞」の記事です。

<桜はね、寒い冬の間、幹にいっぱいエネルギーを蓄えて、春には人を和ませ、人に幸福(しあわせ)な気分を残して散っていくの。いい花を咲かすには、今、頑張る時なの。人は必ず、花を咲かす時が来るのよ>

AED(自動体外式除細動器)とともに贈られた桜の木は、S棟前テラスの芝生に植えられましたが、キャンパス改装に伴い2019年春からB棟扇校舎前に移植されました。

サッカー部の創部メンバーの松井さんは、「入学したばかりの僕らはいわばやんちゃ坊主。寿美さんはそんな僕らを学生としてしっかり育てようとしてくれました。大学職員の経験を積み、年齢を重ねるうちに寿美さんの存在の大きさを痛切に感じます」と語りました。

法人広報企画課・中村康生

 

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