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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第83回

36年ぶり東邦高校が新校舎

2007

更新⽇:2020年7月31日

3大事業の完成

平和公園寄りに新築移転した東邦高校(2007年11月撮影)

東邦学園は創立80周年にあたる2003年5月、記念の「3大事業」基本方針を決定し、4年後の2007年度に完成させました。12月15日には、東邦高校体育館で完成披露の会が開かれ、来賓ら約500人が出席し、85年目を迎えた学園の歩みを振り返りながら記念事業の完成を祝いました。

3大事業は、東邦高校の新校舎建て替え、愛知東邦大学(2007年4月から東邦学園大学から校名変更)に人間学部を開設、日進グラウンドの新設です。

東邦高校は1971(昭和46)年に、東区赤萩町から平和が丘に移転して以来、大学・短大キャンパスに隣接していた校舎を36年ぶりに校庭をはさんで北側の平和公園寄りに新築移転しました。

新校舎は中庭を囲んで5階建ての普通教室棟、4階建ての特別教室棟、体育施設を配置し、総延べ床面積1万9114㎡。モスグリーンの落ち着いた外観と、陽光がたっぷり差し込むデザインは、生徒たちには自慢の校舎となりました。高校新校舎の誕生で、平和が丘学園キャンパスの風景は一新されました。

愛知東邦大学の人間学部には人間健康学科、子ども発達学科が設けられ、新校名とともに経営学部の山極完治教授が第2代学長に就任しました。初代の丸山惠也学長は後援会誌「邦苑」28号(2007年3月)で、学長として最後となる寄稿で「クリーンな愛知東邦大学の誕生」の意義を強調しました。(抜粋)

<新しい校名には大学の設置場所が明示され、東邦高校と同一学園内に設立された大学であることが示され、そして学生諸君が東邦の歴史と伝統に誇りを持てるものにしたいという願いが込められています。開設される人間学部は、本学の設立目的である「地域発展を担う人材の育成」をベースにして、特に「地域で生きる人々の生活と暮らしの充実に貢献できる人材の育成」をめざすものであり、キーコンセプトは人間の「健康」と「子どもの発達」であります。人間の健康と子どもの発達にとって喫煙は大敵であります。本学は4月1日、人間学部の発足を機会に、キャンパスを全面禁煙とします。このクリーンな環境の中で、本学は愛知東邦大学として生まれ変わります>

日進市米野木南山に完成した日進グラウンドには野球場、サッカー場が誕生しました。

生徒たちの成長を見守った学び舎

甲子園準優勝記念で制作されたLPレコードジャケット

東邦高校の新校舎建設の推移を見守り続けた高井茂雄校長が、PTA会誌「栂木(つがのき)」35号(2007年3月)に「緑野に槌音高し竣(お)わるを待つ」と題した思いを寄稿していました。(抜粋)

<この1年間は新校舎の建築を眺め続けていました。長い準備を経て昨年(2006年)4月に着工した時、私はようやくという安堵感と、少しの興奮がありました。基礎固めの杭打ちは241本という多きを数えましたが6月いっぱいで打ち終わりました。昔ならのんびりした「槌音」がもっと長く響いたでしょうが、今は巨大な重機が長いコンクリート杭を持ち上げてそのまま打ち込んでいきます。

工事自体の大がかりさに驚きましたし、また、今まで生徒たちが汗を流した躍動のグラウンドがほじくり返され、打ち込まれていく様に、早々と懐旧の思いを感じました。柱と床を鉄筋で編み上げ、コンクリートを流し込む作業が12月の末まで続きました。

さて、その一方で現校舎とお別れする日が近づいてきました。35年間に多くの生徒たちが学問し、鍛錬し、友情を育んだ学び舎です。若者の成長を優しく、そしてどっしり構えて見守ってくれました。感謝をし、最後の日までいつくしみながらお別れをしたいと思います。

特に今年(2007年3月)の卒業生諸君にとっては、学び舎から巣立つと同時に、思い出多い学びの場がなくなります。感慨ひとしおのものがあると思います。しかし、東邦は私学です。校舎は変わっても83年間結び続けている東邦人の絆があります。寂しさはある。しかし、母校の発展を祝ってほしいと思います>

高木校長も指摘するように、赤萩から移転してきた学び舎では様々なドラマが繰り広げられました。東邦高校野球部は平和が丘に移転してから6年後の1977(昭和52)年、夏の甲子園で準優勝に輝きました。〝バンビ〟と騒がれた1年生の坂本佳一投手を擁しての東邦の活躍は全国の高校野球ファンを感動させました。東邦高校では、優勝を記念したLPレコード「東邦高校-栄光の77」が制作されました。

放送部と音楽部が編集録音し、写真部が装丁、東芝EMIが製造したものです。ジャケットには校庭側から撮影された校舎の写真が使われました。コンクリートむき出しの高校校舎の後ろには屋根に校名を掲げた東邦短大校舎が見えます。

夏の甲子園準優勝報告会では歓喜の校庭

準優勝報告会で校庭を埋めた生徒たち(1977年8月)

東邦野球部史には校庭での準優勝報告会の盛り上がりぶりを伝える写真が収録されています。校庭から見ると右下がりの校舎階段に選手たちが並び,階段前に設けられた檀上を取り囲んだ生徒たちや市民たちが熱い祝福を送っています。

高井校長が寄稿した「栂木」35号には、2006年度の3年生担任たちの卒業生たちへ贈る言葉も掲載されていました。

学年主任の保古久志教諭(体育)は「この平和が丘の校舎ともお別れです。オープン廊下から見た景色や、毎日昇り降りした5階までの階段、バタフライを泳いだプール、友達と過ごした教室。多くの思い出を作ってくれた平和が丘の校舎とも別れなければなりません。何度も卒業生を送り出して来ましたが、世間の流行や社会情勢によって生徒集団は、いつも違う顔を持っていました」と書いています。

3年F組担任で、東邦高校OB(1980年卒の31回生)でもある波多野稔久教諭(英語)は、自らが学んだ「3D」の教室での恩師・太地武先生の思い出を書いています。恩師は終戦の年である1945年に前身の東邦商業学校を18回生として卒業、戦後は教師として母校教壇に立ちました。教え子たちに勤労動員中の爆撃で同期生を失った悲しい思い出も語った50歳を過ぎていた恩師。数Ⅲの授業中、授業を脱線し、「君たちにゃまだ負けませんよ」と、上着を脱ぐや、教卓の横で腕立て伏せをあっさり50回やってのけました。

生徒として恩師の筋力に驚愕したという波多野教諭は、「戦争を生き残った世代は違うと感心したものだった。自分自身の受験も含めて、その後の人生の中で、生きるために本当に大切なものは何かということを教えられたような体験であった。現役での自分の受験が全て失敗した日以来、私は太地先生の真似を続けている」と書いています。高井校長が指摘した「東邦人の絆」はしっかりと引き継がれていました。

「旧校舎に対しても卒業証書を授与する」

後輩たちに胴上げされる卒業生(2007年3月)

新校舎の新築工事のため、2006年の高校体育祭は校外の瑞穂運動場の北陸競技場で行われました。「東邦キャンパス」100号(2006年10月17日)は旧校舎での最後の文化祭の様子を伝えています。文化祭は9月27日の体育祭に続いて29、30日、にぎやかに開催されました。

<36年間世話になってきた校舎で最後となった今年のテーマは「FREEDOM」でした。「様々な青春を見守ってきたこの校舎にふさわしい自由な発想を生み出そう」。実行委員会が選んだ理由です。オープニングセレモニーは、甲子園準優勝投手の坂本佳一さんと大相撲の立浪耐治親方の両先輩を招いて体育館で行われました>

坂本さんは波多野教諭と同期の31回生。立浪親方は38回生(1987年卒)で、3年生の時の担任が保古教諭で2人とも旧校舎から巣立ちました。

2007年3月3日に行われた東邦高校の第58回卒業式は旧校舎の体育館で行う最後の卒業式となりました。高井校長は636人の卒業生への式辞の最後に「卒業生同様、旧校舎に対しても卒業証書を授与する」と付け加えました。

卒業式から1週間後の3月10日には、取り壊される旧校舎で「ホームカミングデイ」が開催されました。500人近い卒業生たちが駆け付け、旧教職員たちとともに、青春の思い出の詰まった学び舎に別れを告げました。旧校舎から巣立った卒業生は2万1000人を超しました。

 

解体される校舎への郷愁

解体工事がほぼ終わった旧校舎跡。後方は大学校舎(2007年)

高井校長が第13代校長に就任した2003年4月から、第7代理事長に赤萩時代からの高校教員で第11代校長を務めた伊藤時雄氏が就任しました。伊藤氏は2001年4月に法人常務理事に就任、下出保雄理事長の病気退任に伴い理事長代行も務めました。第6代理事長の下出氏は東邦商業学校が開校した1923年生まれ。伊藤理事長にバトンを引き継いだ翌年の2004年1月19日に永眠、学園の歴史と同じ80年の生涯を終えました。

伊藤理事長は2008年4月、現在の榊直樹理事長にバトンを引き継ぎましたが、「東邦学園90年誌」に、高校旧校舎解体への郷愁と3大事業に関わった思い出を書いています。旧校舎について伊藤氏は、建築当時は斬新であったオープン廊下や渡り廊下も1995(平成7)年1月の阪神淡路大震災の被害状況や建築時の耐震基準を考え合わせると「内心穏やかではなかった」と振り返っています。(以下抜粋)

<赤萩時代の木造とコンクリートの混在校舎から、壮大で斬新なコンクリート打ちっ放しで、一見頑丈そうな旧校舎への移転。その校舎は詰襟のカラス軍団から、1985(昭和60)年に男女共学の学び舎へと変貌した。

同じキャンパスに新校舎が完成した後、36年間の役割を果たして2007年に解体された。大学A棟の4階から解体作業を見つめ事業の進捗状況を確認しつつ、消えゆく校舎で、生徒や教職員とともに生きてきた過去の想い出が蘇り、かすかなノスタルジアが混然と去来したことを思い出す>

旧校舎は男女共学化後も、1989年春の「平成」では初となった甲子園でのセンバツ4回目の優勝、1993年4月の美術科発足など多くの歴史を刻み続けてきました。

2003年3月に内外に公表された「3大事業」を、伊藤氏が理事長として成し遂げてから4年8か月の歳月が流れていました。

法人広報企画課・中村康生

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