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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第85回

悲憤の金城商業学校史

2007

更新⽇:2020年8月28日

空白の姉妹校史

地域創造研究所から発刊された『東邦学園下出文庫目録』

東邦商業学校の姉妹校だった金城商業学校(以下金城商業と表記)の「入学案内」や校友会誌などの資料が愛知東邦大学図書館が所蔵する「東邦学園下出文庫」に保管されていました。金城商業は空襲で校舎が焼失、所蔵資料も失われました。姉妹校史の発掘に取り組んだ「東邦学園五十年史」(1978年発行)も、「いささかなりともその歴史を明らかにしたいと考えたがそれも果たせず、やむなく当時の校長隅山馨氏に回想をお願いして空白を埋める程度しかなしえなかった」と記しています。

「東邦学園下出文庫」には、戦前から戦後にかけての産業や軍事、学園などに関する文献や資料約1万4000点が保管されています。膨大な資料の存在が明らかになったのは2007年4月でした。東邦高校の旧校舎解体工事の際、旧本館屋上の倉庫に段ボール箱157箱に保管されているのが見つかりました。

資料は初代理事長である下出義雄(1890~1958)が1956年ごろに学園に寄贈。一部は高校と大学・短大の図書館で「下出文庫」(約1900冊)として公開されていましたが、それ以外は未整理のままほぼ半世紀、倉庫に保管されたままでした。愛知東邦大学地域創造研究所が資料を引き取り、研究者や市民ボランティアの協力を得て、整理と内容分析を続けました。

発見された資料は愛知東邦大学図書館で公開されていた「下出文庫」と区別するため「東邦学園下出文庫」として同図書館に移管され、『東邦学園下出文庫目録』も発刊されました。保管資料は2012年度から一般図書同様に閲覧が可能になりました。

マラソン校長創設校の歴史継ぐ

金城商業学校の1936年「入学案内」

金城商業は1935(昭和10)年12月に名古屋育英商業学校からの校名変更を文部大臣から認可されました。「東邦学園下出文庫」に保管されていた「入学案内」は新校名では初の生徒募集となった「昭和11年」(1936年)版です。

「入学案内」には学校創立が1920(大正9)年3月と記載されています。名古屋育英商業学校は1922(大正11)年に実業学校として文部大臣から認可されていますが、その2年前、1920年に開校した昼間の「商業育英学校」の開校をもって創立としていました。

『東区史(名古屋市)』(東区史編さん委員会)によると、同校の歴史はさらに1908(明治41)年の「夜間育英学校」創立にさかのぼります。創立者は愛知一中(現在の旭丘高校)の校長で、「マラソン校長」とも呼ばれ、日本におけるマラソン指導の始祖とも言われた日比野寛(1866~1950)です。「不遇なものの育英」を提唱しての開校でした。

名古屋育英商業学校は日比野の政界進出と不況で経営が行き詰まり、半田市の富豪中埜半左衛門の手に渡りました。中埜は友人である東邦商業学校長の下出義雄に経営を託しました。中埜と下出は、日比野が校長だった愛知一中の同期生でした。下出は金城商業を東邦の姉妹校として再建に乗り出しました。

「入学案内」では金城商業の教育方針として「真剣で確実な、積極的で責任感の強い人格の養成」を掲げるとともに、「正しくて明るい徳育」「愉快で穏健な体育」を掲げています。これに対し、1936年の東邦商業の入学案内は、「真に信頼し得る人物を養成するため、『真面目』の一語をもって教育の根本精神とする」という「教育のモット―」を掲げています。

金城商業「入学案内」には校主が中埜、校長が、日比野から名古屋育英商業学校校長を引き継いだ高橋斯文、下出義雄が名誉校長として紹介されています。募集人員は昼間部1年生120人、夜間部1年生100人。校舎、武器庫、図書館、標本室、授業風景、野球部、庭球部の活動や教練の様子の写真も紹介されています。

校友会誌『金城』

『金城』2号の目次ページ(1937年12月15日)

金城商業は東邦商業と同じ名古屋市東区の松山町にありました。現在の東区泉二丁目、三丁目および東桜二丁目にあたります。東邦商業では野球部長も務めた隅山馨が、下出義雄校長の命を受けて金城商業校長に転出したのは1937(昭和12年)1月でした。「東邦商業新聞」76号(1937年1月26日)に「隅山先生ご栄転 金城商業学校長に」という記事が掲載されています。隅山は「金城商業は本校の弟のようなものでありますし、私も1週に数回はこちらへ伺わせていただきますから、全くお別れするわけではありません」と述べています。

「東邦学園下出文庫」に保存されている金城商業関連資料の中に、1937年から1940年にかけて発行された校友会誌『金城』3冊がありました。2号(1937年12月25日発行、130ページ)、3号(1938年12月30日発行)、104ページ)、4号(1940年2月15日発行、100ページ)です。誌名題字「金城」は下出義雄の筆によるものです。誌面は世相を反映し、次第に戦時色が強まっていきますが、各号とも東邦商業校主の下出民義、東邦商業校長の下出義雄らの巻頭記事が掲載され、東邦商業の教育方針の浸透が図られました。

2号巻頭で、東邦商業校主である下出民義は、金城商業顧問、貴族院議員として金城商業の教育方針について明確に主張しています。(冒頭を抜粋)

<私の後継者たる下出名誉校長が経営の任にある金城商業学校の教育方針は姉妹校たる東邦商業学校と同一轍の下にあらねばならぬ。私は青年時、多少教育に従事した事もあり、後、転じて実業界に入り、五、六の会社に関係し、また、帝国議会にも参ずる次第になったが、今、顧みて痛切に感じるのは「堅実なる人物」の必要である。世に役立つ人物、利巧な人物は済々としてある。併し安心して事を任せ得る人物、事を共にする人物、安心して取引の出来る人物が少ない。故にこういう思想の堅実な、併せて体力の優秀な人物を作りたいの念願のもとに東邦商業学校を設立した所以である。今日の時勢に鑑み、ますます自分の希望が必要緊迫なものであることを切実に感じている次第である>

巻頭文には名誉校長である下出義雄の「南京陥落を前にして」、校主で市政実施の半田市長に就任したばかりの中埜半左衛門の「所感」も掲載されていいます。いずれも口述を筆記したものですが、編集後記には「本号を飾るにふさわしい顧問の下出民義先生、名誉校長の下出先生、校主の中埜先生の談話は(隅山馨)校長先生がご自身で頂いて来て下さいました」と記されています。

緊迫する戦況

『金城』2号(右)と4号(左)のグラビア写真

2号の巻頭グラビア写真2ページには生徒たちの部活動を紹介する6枚の写真が掲載されています。「君は清流を汲み吾薪を拾わん」のキャプションがついてるのは「健児部」(ボーイスカウト)。野営風景の写真ですが、本文中の各「各部報告」(部報)欄には、「8月10日より14日まで5日間にわたり中津川栗山に於いて東邦合同長期野営を行う」の報告もあります。

「明朗スポーツ」と紹介されているのは籠球部部(バスケットボール部)。校庭での練習を開始したのはわずか半年前で、部報は「赤ん坊が母から離れて一人歩き出来かけた」ような段階と伝えています。校庭の花壇の手入れをしながら咲きほこる花を抱える笑顔の部員を紹介した園芸部の写真もあります。

部報欄では野球部、剣道部、庭球部、卓球部、籠球部、健児部、美術部、弁論部の8クラブの活動が報告されています。創部したばかり野球部は部員8人の声を紹介しています。「中商(中京商業)とは言わないがAクラスと対立の出来る程度になりたい」と書いている3年生部員もいます。

4号の「学校日誌」欄には、甲子園選抜で2回目の全国制覇を果たした東邦商業野球部の凱旋を祝うため、「第6限後、東邦商業野球部出迎ノタメ出向」の記事もあります。

3号、4号のグラビア写真では軍事教練、参拝行軍、勤労奉仕、慰霊祭の写真で埋まっています。4号では1939年12月3日に校庭で行われた5人の卒業生戦死者慰霊祭の写真2枚が掲載されています。校庭で行われた「本校出身支那事変(日中戦争)戦死者慰霊祭」で、5人は「聖戦散華五勇士」として同窓会欄に軍服姿の写真、略歴とともに掲載されています。1928年、1930年、1931年、1932年、1933年の卒業でいずれも名古屋育英商業時代の卒業生です。

 

「金城商業学校報国団」の収支資料も

1940年秋、文部省から「学校報国団ノ組織ニ関スル要綱」が出され、ほとんどの学校で 1941年 4月前後からに校友会は学校報国団に改組されていきました。剣道部は剣道班、書道部は書道班など運動部も文化部も報国団のもとに班となりました。

「東邦学園下出文庫」の保管資料の中には1943年12月末現在の「金城商業学校報国団」の「経常部収支勘定表」も残されていました。

報国団に所属する班名には射撃、戦場、銃剣術、喇叭、剣道、角道、通信、体操、海洋、書道、珠算、修養、吟詠、図書、救護、農耕、配給、勤労と戦時色を反映した名前が並んでいます。1万5000円の予算を組んだ戦場班は11月までにすでに1万8761円が使われています。12月の出費も3420円で支出累計は2万2181円なり、班では唯一の赤字として7181円を計上しています。班以外の「滑空機積立金」は10万円の予算額に対して累計12万9224円となり、2万9224円上回りました。

空襲とともに消えた母校

名簿作りを報じた中日新聞

金城商業は1945年3月18日の名古屋空襲で全校舎を焼失し、東邦商業に同居し終戦を迎えました。空襲前、すでに金城商業の校地、校舎は軍に接収され、生徒たちは勤労動員に駆り出されていました。

戦後の1946年4月に14回生が入学しましたが学制が切り替わり1949年3月、145人の卒業生を送り出し、赤萩校舎に掲げられた「金城商業学校」の看板を下ろしました。昼間部は東邦高校に吸収合併され、55人が東邦高校3回生として進学しました。夜間部は1949年4月に東邦高校内に開校した「金城夜間商業高校」となり、1951年4月からは「東邦夜間商業高校」に校名変更、1957(昭和32)年4月からは東邦高校定時制となりました。定時制は1964年3月、最後の卒業生を送り出して休校。長期の募集停止期間を経て1993(平成5)年3月、学則からも「定時制」が取り消されました。

 

戦争の傷跡えぐり出した卒業名簿作成

母校を失い卒業生同士との連絡も取れないまま全国に散った金城商業卒業生たちが1977年8月末、戦後32年を経て卒業生名簿発行にこぎつけました。10回生(1945年3月卒)有志が名簿作成委員会を作り1年余をかけて1400人近い卒業生らの氏名をまとめました。

1回生(1936年3月卒)から14回生(1949年3月卒)まで1300人弱の名簿では住所、勤務先などの空白が目立ちます。住所が判明したのは1回生で11中2人、2回生も15人中2人だけ。7回生は133人中60人の所在地と19人の物故者が分かっただけでした。

10回生でも150人中83人の所在地と4人の死亡確認にとどまり、住所が確認できたの全体でもほぼ半分にとどまりました。作成委メンバーたちが消息を追う中で、5回生の3分1が戦争の犠牲になっていることが分かりました。勤労動員中に空襲で亡くなった卒業生もいました。

名簿には前身の名古屋育英商業学卒業生はごく一部しか記載されていませんが、『金城』2号に寄稿した同校第1回卒業生(1925年3月卒)の横井勉氏は「現在(1937年)の卒業生は昼間部、夜間部で約1500人」と書いています。同窓会や名簿は作られませんでした。

金城商業卒業生たちの名簿作りは「空襲とともに消えた〝幻の母校〟 32年ぶり卒業生名簿づくり」として1977年8月19日「中日新聞」に掲載されました。校長だった隅山馨による寄稿も含めると60ページに及ぶ名簿の「あとがき」で名簿作成委員会は、「名簿発刊は戦争の傷跡をえぐり出す作業だった」と、万感の思いを込め、戦争に翻弄された母校の悲憤の歴史を書き綴っています。(全文)

 

<わが母校、私立金城商業学校は、いまはない。敗戦の年の3月18日未明、幾度目かの大空襲によって灰燼(かいじん)に帰し、わが母校金城商業学校は再建のメドもたたず、事実上消滅した。痛恨のきわみである。だが、今も母校を愛し、恩師を慕い、亡き友を偲ぶ卒業生らの手によって、卒業生名簿が発刊される運びとなった。金城商業学校創立以来、初めてのことである。

思えば昭和10年、育英商業学校から金城商業学校に衣替えし、新しく創立されてから事実上崩壊するまでの過程は、建学の精神とは無関係に、若人らを戦場に駆り立てるための養成機関という悲憤の歴史でもあったと言える。

生徒らの向学の志も軍事教練と勤労動員に変わり、卒業生の多くが中国、ビルマ、フィリピン、あるいはブーゲンビル、ラバウルなどに転戦し、散った。特に5期生の犠牲者は最も多く、卒業生の3分の1が散り、内地においても勤労動員された10期生の諸君が空爆で散るなど、その苦しみの血と悲しみの涙が、今もなお我々の深層に傷跡として残っている。

わが母校、金城商業学校を語るとき、戦争の体験を抜きにして語ることはできないのもそのためである。現にこの卒業名簿の原本である学籍簿にしても、空爆の激しい中、恩師らの手によって土中に深く埋められ守られてきたのであり、それだけに恩師の苦悩も深いものだったと推察する。

再び平和がよみがえってきた。戦中、戦後、我々は多くを体験してきたが、それも風化しようとしている。しかし、人間にとって断じて忘れてならないものがある。その一つが戦争であることを確信している。平和への願いは戦争の傷跡と惨禍を掘り起こすことによって、より強固なものになる。

卒業生名簿の発刊作業はある意味では戦争の傷跡をえぐり出す作業であるともいえる。わが母校、私立金城商業学校卒業名簿の発刊にあたっては、隅山馨元校長先生を始め、齋藤義雄先生、外山駿平先生らの助言を得たのを始め、10期生の諸君らを中心に、各期生有志の皆さんの協力を得たことを付記し、発刊のあいさつにかえる>

法人広報企画課・中村康生

 

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