語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス
第96回
コラム⑯ 東邦商業開校と大喜多校長
1923
更新⽇:2021年3月30日
中京法律学校間借り教室からの出発
東邦商業学校は1923(大正12)年4月、名古屋市中区南新町にあった中京法律学校(東区徳川町にある中京法律専門学校の前身)の教室を間借りして開校しました。現在の中区栄4丁目の名古屋東急ホテルのある場所で、西隣には中京裁縫女学校がありました。
中京法律学校は夜間の学校で、1909(明治42)年12月に、中区東新町にあった予備校校舎の一部を借りして開校し、1913(大正2)年9月から南新町に設けた新校舎に移転しました。東邦商業の授業はこの校舎の教室を昼間のみ借用して行われました。
東邦商業1期生は98人。開校期の動きを記録した『沿革細史』などによると、生徒が机や椅子が破損したということで中京法律学校側から苦情を言われることもありました。運動場もなく、体育の授業は鶴舞公園に走って移動しなければならないなど、生徒たちには自前の新校舎に移転するまでは「我慢の1年」でした。
間借り授業は1923年度1年間だけで終わりましたが、残念ながら、当時の学校生活風景が記録された写真は残されていません。1941(昭和16)年12月に中京法律学校校友会によって作成された開校以来の卒業アルバムに、1923年の第12回卒業記念写真の背景に2階建て木造校舎の一部が見えるだけです。
開校時の仮校舎時代を経て新校舎を設けるパターンはめずらしくありませんでした。東邦商業と同じ1923年開校の中京商業学校(現在の中京大学附属中京高校)は、東区山口町、相応寺の仮校舎で4月から授業を開始し、昭和区狭間町(鶴舞公園竜ヶ池東)に校舎新築を進め、6月に木造2階建て校舎1棟が完成し移転。木造3階建て本館完成後の1926年に開校式を行いました。(『中京大学六十年のあゆみ』より)
名城大学の創立は、前身である名古屋高等理工科講習所が開設された1926(大正15)年ですが、名古屋市中区御器所町古市場20番地(現在の中区千代田3丁目)にあった尾張商業学校の一室を借りての開校でした。(『名城大学75年史』より)
官報に掲載された「中区広路町」
JR千種駅に近い中央線沿い西側の東区千種町赤萩に東邦商業の新校舎が完成したのは1924(大正13)年3月27日でした。4月から、全校生(2年生、1年生)の授業が始まりました。赤萩校舎があったのは現在の東区葵三丁目、千種ニュータワービル、千種ビル、千種第二ビルのある一帯です。
開校3年目の1925(大正14)年度からは修業年限が4年から5年に改められました。設置、開校の認可、所在地変更、修業年限変更については、いずれも文部省告示として「官報」に掲載されました。
文部省告示252号によると、1923年4月4日付で鎌田栄吉文部大臣から設置、開校を許可された東邦商業の設置場所は「名古屋市中区広路町」となっています。『なごやの町名』(名古屋市計画局)によると、1921年(大正10)年8月、「愛知郡御器所村大字広路」が名古屋市との合併で、「中区広路町」となりました。現在は昭和区の八事小学校、滝川小学校学区内の地域です。
『沿革細史』によると、東邦商業の新校舎建設候補地は、<下出氏所有の御器所の2000坪、理事の豊田(利三郎)氏所有の熱田の3000坪、相談役鈴木氏所有の5000坪>が検討されましたが、12月29日、これら候補地以外の東区千種町赤萩に決定しました。
翌年1924年1月26日、昭和天皇御成婚の日に合わせて地鎮祭が行われて直ちに着工、3月27日の新校舎への移転に間に合わせました。官報に記載された「名古屋市中区広路町」は、下出民義所有の「御器所の2000坪」と思われますが、告示413号は、学校所在地を「名古屋市中区広路町」から「東区千種町」に変更することを認可する形となりました。
1925年2月12日の文部省告示第51号では、修業年限の4年から5年への変更が認可されました。同年4月13日、陸軍現役将校配属令が公布され中等学校以上での軍事教練が開始されました。東邦商業でも就業年限が4年から5年に変更されたことで、軍事教練が始まるとともに、徴兵制が適用となる中等学校として認められました。1926年10月に開催された運動会は「徴兵制施行記念」として行われました。
中京法律学校の理事長、校長も務めた大喜多校長
校主下出民義(1861~1952)のもとで東邦商業の初代校長には弁護士の大喜多寅之助氏(1866~1961)が就任しました。大喜多氏は東京帝大法科を1892(明治25)年に卒業し、すぐに名古屋で弁護士活動を始めました。名古屋弁護士会長、名古屋市会議員などを歴任し、1921年(大正10年)には名古屋市長(7か月後に辞任)も務めました。ともに名古屋市会議員も務めるなど下出民義と親交があり、市長を退いたばかりの大喜多氏が、民義に学校設立を奨めた言われます。民義から依頼された名古屋地方裁判所長の仲介で大喜多氏の初代校長就任が決まりました。
『中京法律専門学校80年史』(以下は80年史)によると、向学青年のための法律教育機関を目指し1909年に開校した中京法律学校の運営は、在朝在野の新進法律家の奉仕や篤志家の犠牲によって支えられていました。開校3年余で、校舎の狭さに加え、立ち退きも求められ苦境に陥りましたが、1912(大正元)年9月には大喜多氏も理事に迎えられています。同校はこの年、第1回卒業生を送り出しましたが、卒業記念写真には大喜多氏の姿も見えます。
1913(大正2)年からは南新町に新校舎を設けてやっと独立態勢を整えることができました。開校した東邦商業にこの校舎の教室を提供した当時、大喜多氏は東邦商業の初代校長であると同時に、中京法律学校の理事でした。
さらに、東邦商業の開設実務を引き受け、赤萩校舎の校地選定でも奔走したのが、事務方の責任者であったのが中京法律学校主事の横山金五郎氏です。80年史には、開校しして学校運営が軌道に乗るまで、「初代主事である横山金五郎氏の献身的な努力と講師である新進法律家諸氏の奉仕的協力、学生たちの熱意」があったと書かれています。
財政基盤が安定しなかった中京法律学校は、東邦商業が赤萩校舎に去った2年後の1925(大正14)年9月には校舎を明け渡さなければなりませんでした。80年史には、このころ、東邦商業の校長であり、中京法律学校理事長でもあった大喜多氏の苦境ぶりが記されています。
<1925年9月には校舎を去らなければならぬ羽目となり、暫定的に市内東区松山町24、育英学校の一部を借り受け授業だけを続け、かろうじて本校の命脈を保つにすぎない悲境におちいり、この後数年間は創立以来の苦難時代ということができる。しかし、この難局に処し、当時の理事長・大喜多寅之助氏をはじめ、全理事が、いかに苦心惨たんし、必死になって校運のばん回に努められたかは筆舌に尽くしがたいことで、よくこれを乗り越え、本校の光輝ある伝統を護持されたことは特筆すべきである>
育英学校も間借りした苦難の時代
中京法律学校が1925年、経営難から中区南新町の校舎を明け渡し、暫定的に校舎の一部を借り受けた東区松山町の育英学校は、愛知一中校長で、〝マラソン王〟とも呼ばれた日比野寛(1866~1950)が、「不遇な者の育英」を掲げて有力者の賛助を得て、1908(明治41)年に設立した学校です。
1922(大正11)年には名古屋育英商業学校も併設しましたが、やがて経営に行き詰まり、1934(昭和9)年には東邦商業校長の下出義雄に経営が委ねられ、「金城商業学校」に校名変更し再出発しました。中京法律学校と東邦商業とは、両校校長を務めた大喜多校長、教室提供を通しても、数奇な縁があったようです。
中京法律学校が育英学校の教室を借りて授業を続けていた1926(大正15)年10月には、中京法律学校主事の横山氏が亡くなりました。横山氏は東邦商業の開設実務に奔走するとともに、『沿革細史』によると、東邦商業の教壇にも立ち、「作文科」の授業を担当したようです。『東邦学園50年史』に収録されている「学校教職員人事録」には横山氏が教員として1923年4月に就任したことが記されています。
中京法律学校は1928(昭和3)年9月からは、東区下堅杉町の常盤女学校内に移転しましたが、1932(昭和7)年4月からは東区主税町に新校舎となる建物を賃借し、新入学生(24期)は一挙に120人にのぼる活況となりました。1933(昭和8)年5月からは同校出身の在野法曹関係者らが経営に専念し、理事長の大喜多氏は校長に就任しました。大喜多氏は1934年1月、東邦商業校長を退き、副校長だった下出義雄にバトンを引き継ぎ、中京法律学校の教育に専念することになりました。
戦局の悪化で中京法律学校は1944年3月1日をもって休校。戦後、市内の小学校講堂、名古屋弁護士会館大会議室などを借りて授業を再開しましたが、1950(昭和25)年に東区区徳川町に新校舎を完成させ現在に至っています。
大喜多氏は1961年2月13日、96歳の生涯を終えました。同19日には中京法律学校講堂で学校葬が行われ、1000人余が参列し、冥福を祈りました。80年史は「大喜多氏は名古屋市長であったとともに、法曹界の長老であり、本校校長の他に東邦商業学校(現在の東邦高校の前身)校長などを歴任された偉大な教育者であり、惜しみても余りあることであった」と追悼しています。
「関東大震災当時を忘れるな」と訓示した大喜多校長
1939(昭和14)年5月31日「東邦商業新聞」100号に掲載された「回顧座談会」で下出義雄校長は、「大正12年には関東大震災があり、思うように木材が手に入らず、えらく難儀しました」と赤萩校舎建設での苦心談を語っています。
1期生の松本次郎さんは、「借校舎から新校舎に移った時は、本当に肩身が広く嬉しかった。当時は電車も単線で、千種橋から学校を見下ろすと、北の隅の方にある1棟の校舎があるだけだったので、グラウンドもとっても大きく見えて、これから大いに頑張ろうと思いました」と振り返っています。開校4年目を迎えた1926(大正15)年1月24日には、電話が開通しました。東局6250番です。
1928(昭和3)年10月1日付「東邦商業新聞」第13号は、2学期始業式での下出民義校主、大喜多校長、下出義雄副校長の訓辞を掲載しています。大喜多校長は開校した1923年9月1日に発生した関東大震災について述べました。大震災発生当時、中京法律学校に間借りしていた1期生たちは被災地に義援金を送りましたが、その1期生たちはこの年3月に卒業しており、在校生は大震災翌年以降に入学しした生徒たちでした。
<本日は5年前に関東の大震災のあった日で、その当時、わが日本国民は、之は天が我々に下された戒めであるとか、世の中が不面目になった報いであるとか言って大騒ぎした。天にそむかぬように真面目で働くようにと誰も彼も言ったのである。そうして日本の国民が全部力を合わせて復興に努力したのであるが、忘れっぽい日本の国民は年月が経って、段々と忘れて行き、この頃では真面目に働こうと決心したのは何処へ行ったか分からぬほどである。諸君も今日をよく想い出すと同時に、真面目に学業を励み、先ほど校主先生からお話のあった、安心して任せられる人とならなければならない>
「震災当時を忘れるな」と訴えた大喜多校長の頭の片隅には、大震災支援に動いた1期生たちの思いがよぎっていたのかも知れません。大震災から5年。大喜多校長にとっては、中京法律学校理事長として、自前の校舎を求めて苦難の道を歩み続けていた時代でもありました。
1942(昭和17)年3月に発行された『中京法律学校校友会会員名簿』が愛知東邦大学図書館が所蔵する『東邦学園下出文庫』に保管されていました。名簿には第1回から第33回までに卒業者名が収録されており、弁護士や公務員になっている卒業生も数多くいます。学校所在地は東区主税町3の6。役職員欄に「校長 大喜多寅之助」、判事や弁護士が多い功労者欄に「下出義雄 大同製鋼株式会社社長」の名前がありました。
『東邦学園下出文庫』には初代理事長である下出義雄が学園に寄贈した、戦前から戦後にかけて集められた産業や軍事、学園などに関する文献や資料約1万4000点が収められています。『中京法律学校校友会会員名簿』はその中の1点です。
法人広報企画課・中村康生
この連載をお読みになってのご感想、情報の提供をお待ちしております。
法人広報企画課までお寄せください。