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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第95回

コラム⑮ 羽ばたいた3大臣

1930

更新⽇:2021年3月4日

2大臣が参加した1930年運動会

1930年秋季運動会と浦野さん(4回生卒業アルバムより)

東邦高校から3人の大臣が誕生していることをご存じでしょうか。旧制東邦商業学校の1931(昭和6)年卒で、労働大臣を務めた浦野幸男さん(1914~1977)、1933(同8)年卒で通産大臣、防衛庁長官などを歴任した江崎真澄さん(1915~1996)と、東邦商業が歴史を引き継いだ名古屋育英商業学校を1928(同3)年に卒業し国土庁長官などを務めた松野幸泰さん(1908~2006)です。

1930年秋に開催された東邦商業運動会プログラムには、5年生の浦野さん、3年生の江崎さんの名前がありました。後に国会議員として活躍することになる2少年が赤萩校舎の運動場を駆け抜けていました。

「東邦商業新聞」第26号(1930年10月18日)の1面は、「晴れやかに迎ふ大運動会 ここに回を重ねて八回」の大見出しで、間もなく開催される秋季運動会に向けての盛り上がりぶりを紹介しています。

2面、3面の見開き紙面には、プログラムとともに、競技ごとの出場生徒氏名が掲載されています。浦野さんは第1回100m第1予選と第22回拝借競争の欄に名前があります。この年、3年生に編入学したばかりの江崎さんは第13回5000mと第18回支度競争に出場していました。

記事によると、運動会の応援は東邦名物となっていました。しかし、過熱のあまり、「競技あっての応援なのに、応援するために競技が添え物の景品のようになっていないか疑われる」との指摘があり、過熱への反省から、この年から太鼓等の鳴り物は一切厳禁となり、応援旗の大きさも制限が加わるなど大幅な改正が行われました。

1931年3月卒業の浦野さんら4回生卒業アルバムには、その応援ぶりも含めた秋季運動会の風景が収められていました。

「東邦商業新聞」第27号(1931年1月26日)には「昭和六年三月卒業見込者」の氏名が、「いろは順」に、特技、年齢とともに掲載されています。「簿記 浦野幸男 17」の紹介も記事の中ほど後半にありました。

同じ号の紙面には1930年12月調べの全校生徒639人の「生徒年齢」一覧表も掲載されています。▽1年生88人(13歳86人、14歳2人)▽2年生149人(14歳141人、15歳8人)▽3年生161人(15歳152人、16歳9人)▽4年生169人(16歳164人、17歳3人、18歳1人、19歳1人)▽5年生122人(17歳115人、18歳4人、19歳2人、20歳1人)です。3年生の江崎さんは15歳、5年生の浦野さんは16歳でした。

 

「春風は分け隔てなく訪れてくれる」の言葉愛した浦野大臣

江崎、浦野さんの略歴(「中部読売年鑑」1977年版)

浦野さんは現在の豊田市生まれ。『豊田市史人物編』(1987年)によると、父親の本一氏は戦後、猿投村長も務めました。猿投第二尋常高等小学校、東邦商業を卒業。1935年に応召し中国北部に出征。戦中から戦後にかけて食糧営団西加茂支所などに勤務しました。1951年から愛知県議3期を経て1960年11月20日に行われた第29回衆院選挙で愛知4区(当時)から初当選を果たし、衆院議員を連続6期務めました。

1976年9月の三木武夫改造内閣で労働大臣として入閣し、難題が多かった労働行政に向き合いました。一方で豊田工業高専の誘致など地元のためにも尽しましたが1977年1月、心不全のため63歳で亡くなりました。

第80回国会衆院本会議(1977年2月17日)で、同じ愛知県選出の太田一夫議員(社会)は追悼演説を行い、浦野さんの在職16年5か月の功績とともに人柄を偲びました。(抜粋)

<先生は、「春風堂に満つる」という言葉を愛し、「春風はどんな不幸な家庭にも、どんな貧しい人々にも、分け隔てなく訪れてくれる。これと同じように、政治も特定な人、仕事、地域に偏ることなく、平等に行われてこそ、本当の政治である」と周囲の人々に語り、みずからもこれを実践してこられました。私は、この先生の言こそ、まさに議会制民主主義における政治理念であると存じます>

浦野さんは愛知県議だった1954年6月から学校法人下出教育財団(1960年7月から学校法人東邦学園に改称)の評議員を引き受け、国会議員になって以降も江崎さんとともに評議員として母校の発展を応援しました。

戦後初の衆院選に30歳で当選した江崎大臣

教育委員選挙当選の下出貞雄校長を祝福する江崎さん

江崎さんは東邦学園70年誌『真面目の大旆』への寄稿の中で、「わが人生の師・下出義雄先生」として、東邦商業との関わりと政界進出の経緯を紹介しています。江崎さんは一宮市出身。地元の高等小学校から東邦商業3年生に編入学し1933年3月に6回生として卒業しました。胸を病み3年間の療養生活の後、下出義雄校長の計らいで東邦商業に職員として就職しました。寄稿には「教員の資格がないので、低学年の国語や作文と庶務的な仕事を手伝っていた」とあります。

江崎さんは大同製鋼社長でもあった下出義雄氏が、1942年4月に実施された第21回衆議院議員選挙(いわゆる「翼賛選挙」)に立候補して当選した際、初めての応援演説を経験。その後は下出社長秘書として大同製鋼に勤務し終戦を迎えました。

江崎さんは戦後初の国政選挙となった1946年4月の第22回衆議院議員選挙に立候補し、60人を超す愛知県の候補者では最年少の30歳ながら初当選を決ました。

政治家デビューを後押ししてくれた下出義雄氏について江崎さんは、<「君は秘書だったし、私との関係は皆知っているから頑張りなさい」。先生はこう言葉をかけてくださり、父・民義氏(多額納税者として貴族院議員、当時現職)から、鳩山一郎先生の名刺と紹介状をもらってくださった。これが縁で私は自由党から立候補することになったのである>と書いています。

江崎さんは17期にわたり衆議院議員を務め、総務庁長官、通商産業大臣、自治大臣、防衛庁長官などを歴任。1996年12月11日、81歳で死去しました。

江崎さんは東邦商業出身の国会議員第1号として、母校の応援を惜しみませんでした。戦後の民主化政策の一環として1948年10月には第1回教育委員会選挙が行われましたが、愛知県選挙(定員6人)には東邦高校校長で27歳だった下出貞雄氏(下出義雄氏の長男)が立候補し、立候補者15人という激戦を制し当選を果たしました。選挙戦を支えたのは衆院議員になったばかりの江崎さんら東邦商業OBたちでした。

江崎さんは1951年3月から学園評議員に就任したほか、1947年から1956年まで東邦会(東邦商業、東邦高校、東邦中学同窓会)の初代会長も務めました。1952年8月に92歳の生涯を終えた学園創設者下出民義氏の葬儀では卒業生を代表して葬儀委員長を務めました。

東邦会が戦争犠牲者や永眠者追悼のため、開校30周年にあたる1953年10月に発行した『追憶の記』に掲載された江崎さんの寄稿です。

<福沢精神が慶応義塾に厳然として存し、大隈精神が早稲田大学に立派に残っているように、下出民義先生が尊い体験から割り出して、人材養成を志されたその精神は、将来かけて受け継がれるべきである。東邦学園の発展が、はじめから大学という型ではなく、商業中等学校から始まり、今日幼稚園(保育園)、高校と伸びた。それが着実に大学へと徐々に、力強く伸びていくならば、寧ろそうした発展段階をたどることこそ、また下出先生の望まれるところであるような気もする>

 

活動弁士の小説も書いていた

職員時代の江崎さんと「東邦商業新聞」に掲載された小説

江崎さんは東邦学園70年誌への寄稿の中で、東邦商業卒業後の闘病生活中に、「ヘタな小説を書いていた」と振り返っていますが、東邦商業5年生の時に書いた短編小説が「東邦商業新聞」に掲載されていました。「裏街の感情」という、短編小説よりも短い「掌編」と呼ばれる作品です。第34号(1932年4月30日)に掲載された作品の書き出しです。

<道路の両側にある小さな泥溝は店灯を映した上で、びしょびしょと降るしみったれた雨を弄(もてあそ)んでいた。街角からヘッドライトが幾筋かの雨を吹き出して現れると、下駄や草履が五つ六つ並べてある装飾窓へ、泥水を引っかけてはね返って行った。この下駄屋の隣は小間物屋で、その向ふは菓子屋だったかと思ふと、ニグロの歯のやうに、「つぼみ」と黄ぼく浮き出た薄暗い喫茶店があって、針音するレコードが、遅れた流行歌を野蕃な聲で歌っていた――>

「裏街の感情」はこうした界隈の「ミカドキネマ」という映画館が舞台で、主人公はこの映画館の解説者(活動弁士)です。雨の日の映画館は「裏街特有のシガレットを手にしたオカッパ、でっぷり脂肪太りしたおっさん、落花生の皮を噛む中学生」などの客でいっぱいです。小説はそうした客たちを前に語り続けれなければならない活動弁士の苦悩を描こうとしているようです。作品の後には、は「旧作を改む」との注意書きと「文芸欄原稿募集 5C江崎迄」のお知らせが加えられています。

活動弁士は無声映画の上映中、傍らでその内容を解説する専任解説者です。2019年12月に公開された周防正行監督の映画『カツベン!』でも昭和初期の活動弁士の人気ぶりが紹介され話題になりました。しかし、音声が入るトーキーが普及するようになると、活動弁士弁士たちは廃業に追いこまれていきます。江崎さんも活動弁士を題材にしながら社会の動きを見据えていたのかもしれません。

転校、村議、県議、知事、代議士と駆け上がった松野大臣

回顧録に掲載された松野さんと「中部読売年鑑」1977年版

松野さんは岐阜県穂積町(現在の瑞穂市)の地主の長男として生まれ、1922(大正11)年に旧制大垣中学(現在の大垣北高校)に入学しました。

回顧録『遥かなる道~松野幸泰とその時代』(岐阜新聞・岐阜放送、1992年)によると、大垣中の生活指導は厳しく3年生で放校処分になりました。イギリス国歌を歌わせる英語の授業を「イギリスの植民地でもないのに」と集団でボイコットしたためでした。海津中学(現在の海津明誠高等学校)の4年生に編入しましたが、ここでも5年生の1学期に、暴力的なスパルタ教育の校風に反発して5年生60人余で同盟休校したことでまたも退学処分に。1927(昭和2)年9月、父親が探してきた名古屋育英商業学校(名古屋市東区松山町)5年生に2学期から編入学し、1928年3月に卒業しました。

名古屋育英商業学校は愛知一中(現在の旭丘高校)校長だった日比野寛(1866~1950)が設立した「育英学校」時代を経て1922(大正11)年4月に開校しました。しかし、「体育第一主義」の学校経営は行き詰まり、半田市の富豪である中埜半左衛門に経営が移り、さらに中埜の友人で東邦商業校長だった下出義雄に託されました。

1935(昭和10)年12月、下出は校名を「金城商業学校」に改称し、東邦商業の姉妹校として再建に乗り出しました。金城商業は戦後、東邦高校に吸収されました。

回顧録で松野さんはこう語っています。<大垣中を〝クビ〟になって、海津中4年生に編入しましたが、ここでも5年生の1学期に〝クビ〟になり、2学期から父親が探してきた名古屋の育英商業(現東邦高校)に行ってやっと卒業できました。学歴といったらこんなもので、自慢できるものではありませんが、学校に三つも行って、同級生が多いですから、選挙の時は良かったですよ>」と語っています。松野さんのこの言葉について同書は、「選挙の票につながったかどうかはともかく、松野さんは学歴ではなく独学の研さんで自らの道を開いた努力の人であり、古い枠にはめられるのを嫌い、損得よりも我を貫いた意志の人であった」と解説しています。

松野さんは1936年から穂積村議3期、戦後の1951年から岐阜県議を6期務めた後、1958年からは岐阜県知事を2期務めました。1967年からは国政に転じ、衆院選挙に8期連続当選し、1981年には国務大臣として国土庁長官などを務めました。2006年5月に97歳の生涯を終えました。回顧録は松野さんを「郷土が生んだ政界の風雲児」と紹介しています。

法人広報企画課・中村康生

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