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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第98回 番外編2

「名古屋国民高等学校」の開校

1926

更新⽇:2024年4月5日

「抜粋帳」に残された「学生募集」広告

1926年の「抜粋帳」

東邦商業学校開校当時の、生徒募集広告などを中心にした新聞記事の切り抜き帳が残されていました。旧職員住宅倉庫の片隅に、ほこりまみれていた分厚い切り抜き帳には「抜粋帳」と印字されています。各ページ右端に「〇月〇日〇〇新聞」と印刷されており、市販されてた記事スクラップ帳であったと思われます。
表紙を開けたページには印鑑の入った「名古屋市東区千種町字赤萩 東邦商業学校」のゴム印が押されており、学校の公式保存帳であることがうかがえます。「抜粋帳」には掲載年が書かれておらず、掲載紙の発行日、新聞名は分かっても、何年のものであるかは、前後記事の内容などと合わせて推測するしかありません。
「学生募集 名古屋国民高等学校(夜学)」(4月15日新愛知新聞)の広告が目にとまりました。校長は下出義雄、開校校舎は東邦商業学校内とあります。隣には「徴兵猶予認可 東邦商業に」(9月14日名古屋新聞)の切り抜き記事が張られています。徴兵猶予の扱いについて、東邦商業学校が中学校と同等以上であることを認定すると陸軍大臣、文部大臣から認定されたのは1926(大正15)年9月8日ですから、2つの記事は1926年の記事であることが分かりました。
「抜粋帳」で目立つ東邦商業学校の広告が「生徒」募集であるのに対し、名古屋国民高等学校の広告は「学生」募集であることからも、高等教育レベルの学校であることが分かります。校長は、東邦商業学校副校長で校主代理でもあった下出義雄です。広告には中学校卒業程度以上の学生を対象に、法律、経済、政治、社会、哲学、英語、文学などの科目が設けられていることが紹介されています。
「愛知県統計書」(県総務部統計調査課編)の1926年版学校総覧によると、名古屋国民高等学校は1926年4月に名古屋市東区千種町(東邦商業学校内)に開校しました。法律学科に修業年限1年、1学級が設置されました。教員(兼務を含む)は10人で入学者が98人ありましたが、卒業者は28人だけです。同統計書1927(昭和2)年度版以降は「休校中」と記載され、「総合名古屋市年表昭和編」には1931(昭和6)年9月7日、「私立名古屋国民高等学校廃校」と記載されています。
「東邦学園五十年史」(50年史)の巻末年表には、1925(大正14)年4月に、「名古屋国民学校設立認可(設立者 下出義雄氏)、1927(昭和2)年6月6日に「名古屋国民高等学校休校」、1931(昭和6)年9月7日に「名古屋国民高等学校廃止認可」 と記載されており、同校が存続したのは1926年度だけでした。

出版事業も手がける

発行日は1926年7月8日

名古屋国民高等学校は出版事業も手がけていました。1926年7月発行の大喜多光著『サボタージュの本質及び刑法上の意義』という法律論文の本です。大喜多光は東邦商業学校教員名簿にも講師として名を連ねる東京帝大卒の法学士。初代校長で、名古屋市長も務めた大喜多寅之助の二男です。『サボタージュの本質及び刑法上の意義』は75ページ。奥付には、大正15年7月8日発行、著作者 名古屋市東区外堀町 大喜多光、実価、発行所 名古屋国民高等学校などが記載されています。
本文で大喜多光は、「法制審議会の刑法主査委員会が其の38項に亘る広範な刑法改正要綱を発表したのは、われわれ刑事学の将来の進化に対して注目しているものにとっては、非常に興味ある問題です」と書き出し、難解な刑法論を展開しています。
同年発行の校友会誌「東邦」3号に掲載された教員名簿には、大喜多光はじめ、商業学校より上級レベルの学校の教壇にた立ってもおかしくない名前が並んでいます。校長の大喜多寅之助(東京帝大卒、法学士)、副校長の下出義雄(東京商科大学卒、商学)を始め、義雄の弟である下出隼吉(東京帝大卒、文学士)は、社会学会を創設した新進社会学者でした。
大喜多光の著書発刊直後の1926年8月、下出義雄は欧米教育事情の視察のため旅立ちました。帰国は1927年2月。大正の時代は昭和の時代に変わっていました。

「下出書店」と共通する硬派出版

下出義雄(1928年アルバム)

下出義雄は一橋大学の前身である東京商業学校専攻科を1915(大正4)年に卒業しました。愛知東邦大学地域創造研究所の中部産業史研究部会員(2017年当時)として、下出義雄の文化活動を特集した研究叢書執筆にも関わった朝井佐智子さんよると、義雄が初めて取り組んだ経済活動は、東京での「下出書店」の創設でした。初の出版物として武者小路実篤著『友情』を1921(大正10)年4月10日に出版。1923(同12)年までの2年余に56冊を出版しました。
しかし、同年の関東大震災で出版物と拠点を失ったことで、下出書店は、弟の下出隼吉が発行者である『社会学雑誌』のみを発刊し続けるも1926(同15)年、終焉を迎えました。
名古屋に戻った下出義雄は、名古屋紡績(現在の東洋紡績)、大同電気製鋼所(現在の大同特殊鋼)など、複数の企業経営に参画し大正期から昭和初期の名古屋経済界を牽引しました。
「東邦商業新聞」17号(1929年2月10日)には「社会学会から下出隼吉氏謝状」という記事が掲載されています。「社会科学研究の研究機関としてその権威を認められている社会学雑誌は発行以来6年、号を重ねること百数十号に達し、斯界に確固たる地歩を占めてはいるものの、学術誌の常として収支相償(あいつぐな)はず、毎年四百余円の欠損を来している有様で、その存続は同誌発行以来、常務委員として同誌編集経営の全責任を負って活動しつつある下出隼吉氏の損失補てんによって続けられた」と指摘。下出隼吉が1929年3月に帝大経済学部を卒業して帰名することになったので社会学会では多年の献身的な努力に対して謝状を贈ったことを紹介しています。
下出書店は岩波書店に対抗するかのような出版事業をめざしました。学界で欲する研究者のために、営業的に成り立たなくても、採算を度外視しての出版を続け、数年間で多額の損失を招きました。
名古屋国民高等学校の出版物として確認できるのは、『サボタージュの本質及び刑法上の意義』だけですが、出版スタイルは「下出書店」を彷彿させるものでした。

社会教育と「国民高等学校」

「抜粋帳」の下出義雄欧米視察記事

「国民高等学校」の名称は、デンマークの農村を中心に発達し、勤労青年を主たる対象にした社会教育施設に由来するようです。日本では1927(昭和2)年2月、加藤完治により「日本国民高等学校」が設立され、農民教育として広がっていきました。東邦学園50年史にも1927年の一般事項の年表として、「2.1 日本国民高等学校の設立(校長加藤完治)」と記載されています。
岩手県でも「岩手国民高等学校」が1926(大正15)年1月10日から3月27日まで花巻農学校に開設されました。疲弊した農村を厚生するために、まず農村青年の社会教育を充実し、あわせてその精神的奮起をうながそうとするもので、宮沢賢治が「農民芸術」の教科を担当したという記録が残っています。講義の中で賢治は「ベートーベン百年祭レコードコンサート」も開いています。(菊池忠二著『私の賢治散歩 上巻』)

「教育は鉄を練って鋼となす事」

「東邦商業新聞」17号(1929年2月10日)

「東邦商業新聞」16号(1929年1月12日)、17号(同2月10日)に下出義雄が、「私の教育感」として、教育の社会的意義について寄稿し、「現在の制度は余りに形式的だ」と断じています。
義雄は当時の過熱する出世のための大学進学志向に、「子弟に最高の学問を受けしむるに汲々たる有様となった。或る者はそれが為に祖先伝来の家屋敷を売って学資に投じて省みなかった」と批判の目を向けています。そのうえで、「教育の社会的意義での私の考え」として書き進めています。
「私は思う。教育は鉄変じて金となすものに非ず。鉄を練って鋼となす事のみがなし得ることではあるまいか。世の人が免状を得たるが故に、鉄の質が金となれりと誤信するが一面には、教育のために無用の投資をなし、他面にはにせ金をつかまされるたる事に気づかずして、その価値を疑がい、そこに教育の価値を或いは過大に、或いは過少に見誤るのではないか」(抜粋)
名古屋国民高等学校は開校1年で休校となり、再び開校することはありませんでした。下出義雄は、本来あるべき社会教育の形を、「名古屋国民学校」に求め、実践を試みたのかも知れません。

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