語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス
第99回 番外編3
霜降り制服の夏
1935
更新⽇:2024年9月3日
昭和10年夏休み就業体験
戦前の1935(昭和10)年の7月30日「大阪毎日新聞」名古屋版に、海水浴客でにぎわう知多半島の愛知電気鉄道(現在の名古屋鉄道)新舞子駅で就業体験に取り組む東邦商業学校5年生の奮戦ぶりが紹介されました。保存されていた東邦商業学校の記事スクラップ帳「抜粋帳」に残されていました。
「楽しい夏の休暇中忙しい駅員生活 東邦商業校五年生十君が社会学実習第一課」の見出しがついた、89年前のインターンシップ紹介記事です。(漢字表記の一部は原文のまま)
花やかな海水着だとか、夏賛歌のウーピー風景が氾濫する愛電、海岸線の各駅へ、このほどから霜降りの制服のままで、名古屋東邦商業学校5年生10名が散兵線を布き、「社会学実習第一課」として、甲斐々々しく働き始めた。海沿いのボート屋のエキストラなどと、少年らしい多彩な夢を初めは計画したけれど、遊んでしまっては――と、堅実方針に変更したもので、勤務は午前7時から午後6時まで。
浴客を吞吐する多忙な駅で、水撒き、改札、収札や売り上げ勘定まで、お得意の算盤を弾いて勉強し、8月20日まで勤めてから、「夏場稼いだ報告書」を先生まで差し出すのだそうだ。このごろの暑さで、最も忙しい知多郡新舞子海水浴場をひかえた新舞子駅で働いている剣道部中島敏雄君(18)はこう語る。
一番忙しいところという注文で、海岸線の駅を買って出たわけです。無理いうお客がありましてね。一番感じたのは矢張り「忍耐」――。同じような年配の男女がずいぶん遊んでいますが、別段羨ましいとも思いません。気持ちさえ確りしていたら暑さなんか平気ということも、ここで悟りました。
これらの実習中学生群に対抗して、一方、名古屋中央職業紹介所へは「海浜でソーダ・ファウンテンを開きたいが――」と、調査方を頼んで準備中の勇敢な女学生も現れている。(写真新舞子駅で働いている中島君)
愛電から名鉄への移行
駅員体験の記事が掲載されたのは1935年7月30日ですが、実は愛知電気鉄道(愛電)は同年8月1日、名岐鉄道と合併して、路線は合併により成立した名古屋鉄道(名鉄)に引き継がれました。
愛電は1910(明治43)年に設立され、名古屋市を拠点として、主に知多半島西岸地域と名古屋市を結ぶ鉄道事業を展開。1922(大正11)年からは名古屋市と豊橋市を結ぶ豊橋線の建設に着手し1927(昭和2)年6月に全線開通しました。
愛電は沿線開発の一環として1927年、当時の鳴海町内に鳴海球場を完成させました。「東の神宮、西の甲子園に負けない本格的な球場」をめざしました。
鳴海球場では、旧制中等学校野球などのほか、日米野球も開催され、1934年11月22、23日にはベーブ・ルースを擁する米大リーグ選抜チームと全日本軍との試合も開催されました。
知多市長浦地区は1930(昭和5年)9月に愛電長浦駅が開業したのに伴い、別荘地として開発されました。東邦商業学校校長だった下出義雄も別邸を設けました。
しかし、昭和初期の経済不況を経て、地域交通事業者の統合が時流となるなかで、名古屋財界による名岐鉄道との合併への流れが加速していきました。
「東邦商業新聞」に掲載された参加者者座談会
1935年度2学期が始まった東邦商業学校では9月13日、5年生として、学校生活最後の夏休みを最も有意義に送るべく、駅での実習に参加した10人による座談会が開かれました。「東邦商業新聞」第62号(9月30日)には特別教室で開催された座談会内容が紹介されました。タイトルは「夏期愛電実習生活座談会」ですが、8月1日からは名鉄となったため、本文では「舊(旧)愛電各駅」と言う表記で10人の実習ぶりを紹介しています。
10人の実習駅は堀田、新舞子、鳴海、傳馬町、神宮前(3人)、大野、河和口、東岡崎の各駅。座談会は「自由にザックバランで結構ですから」という進行係に促されて始まります。以下、10人の実習駅と発言の抜粋です。
◇参加した目的、動機
水野秀男さん(堀田) 実務の実習と実社会の姿を眺めたいと思う気持ちからです。
佐藤始郎さん(神宮前) 来る就職に備えようという心持も多分にありましたね。
薄井吉明さん(東岡崎)最後の夏休みを何か有意義に利用したいというような。
◇失敗や成功
中島敏男さん(新舞子) 平常のように車内を掃除していたら電車が動き出した。線の切り換えだろうと一人心得てたつもりでやっていたら、いつの間にやら隣の大野まで来ていて、後でひやかされた。
梶田嘉三さん(河和口) 電話ぐらいと簡単に考えていたが、あれが上手くできればまず就職第一課は完成だね。あわててしどろもどろで、何度も聞き返しているうちに「君は誰だ」と怒られあわてた。
◇悪感好感
伊藤美喜雄さん(傳馬町) 毎日来る小学生が襟章を見て、「東邦の生徒だぎゃー」と冷やかされ、大人げないけど嫌な気がした。
八木敬一さん(鳴海) 名古屋の女学校に通っている生徒が定期券を見せんもんで「定期券拝見」と言うと、面倒臭そうに取り出し鼻先に突きつけるようにして見せて行く。莫迦にしてやがると、情けなくなったね。
佐藤さん 神宮前の改札にいるとよく麗人が通る。自分がつまらないことをしているように思えて一寸恥ずかしい。
石川盛松さん(神宮前)冗談の一つも言えるようになった日の嬉しさは忘れられない。
小澤豊さん(神宮前) 嬉しかったのは職場で本年度卒業の先輩が上の人たちにも信用されていて、何かと気をつかってくれたこと。
松本正男さん(大野)海水浴にきた東邦の生徒と親で「今日は」と頭を下げる下級生もおり、初めは体裁が悪かったが終わりには、学校の生徒に会うと得意にさえなった
愛電合併、鳴海球場熱気の体験
座談会では愛電の合併、鳴海球場の熱気を語る発言もありました。神宮前駅の佐藤さんが「8月1日、愛電と名岐の合併だったが、あの時はみんな昇給したね。昇給したした人々は、ほんの第一印象だが、確かに真面目な人々に多かったように思われる」と観察した印象を披露。これに同駅の石川さんが、「そう。自分の職務を忠実に遂行している人ばかりのようだった。真面目というモットーを改めて考え直す気になったよ」と応じています。
鳴海駅担当の八木さんは「東海予選中等野球の日なんか物凄かったなあ」と驚きを振り返ります。これを受けて堀田駅の水野さんも「ぼくなんか、それこそ踏殺されるところだったよ。あの物凄い観衆が入り口で押し合いへし合うのだからな。助勤にやられた者が、どんなに頑張っても手に負えん。両方ともけんか腰で、正気の沙汰とも思えなかった。
八木さんは「僕は駅から一歩も出られなかった。予想していたより倍もの人出で、取扱者側に回って、野球のあの人気には今さらの感をもよおしたね」と応じています。
1935年7月と8月、鳴海球場を沸かせたのは夏の甲子園を目指した愛知予選と東海予選。東邦商業は愛知予選3回戦で享栄商に敗退し、甲子園出場をかけた最後の決戦舞台である東海予選には出場していませんでした。
「東邦商業新聞」第62号「編集後記」には「新しい試みとして、5年生10名が夏季休暇を利用し名古屋鉄道(旧愛電)各駅に於いて、実習員として生活したその座談会を開き掲載することにした。上級生はもちろん下級生諸君も熟読されたいと思う」と書かれています。
休暇中の生徒心得
1935年夏休み中の「生徒心得」が「東邦商業新聞」第61号(昭和10年7月18日)1面に掲載されています。
「休暇中は特に精神の緊張に十分注意し、在来の良慣習を破らざること」「外出の際は制服制帽制靴を着用するを本則とし、特に服装容儀を正しくすること」「毎朝自宅付近の神社仏閣に参拝し敬神感謝の念を養い併せて健康保全に資すること」「劇場、映画館、寄席等へは監督者同伴にあらざれば出入りせざること」――など16項目が掲げられています。ちなみに2学期始業式は9月2日午前8時半開始でした。
愛電就業体験に参加した5年生たちは、1931(昭和6)年4月入学、1936(同11)年3月卒業の9回生です。第61号には夏休み中の各部の練習予定表も掲載されています。中島さんの所属した剣道部は約30人参加の前半(7月19日~23日)と約60人参加の後半(8月21日~30日)の校内道場での練習日程が組まれていました。8月20日まで新舞子駅での就業体験をした中島さんは、5年生後半も部活を続けていたとしたら、翌日から赤荻道場での練習に参加していたのかもしれません。