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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第100回

戦争と球児たち①

1941

更新⽇:2025年1月9日

開戦6か月前のプレーボール

熱田神宮に甲子園優勝を報告する野球部

東邦商業学校が春の選抜大会に8年連続出場して3回の全国制覇に輝き、夏の大会にも2回出場した1934年から1941年までは東邦野球の黄金期でした。同時にこの時代は、日本プロ野球の草創期であり、日中戦争から太平洋戦争へと突き進み、球児だった尊い命が犠牲になった戦争の時代でもありました。戦後80年の2025年、東邦球児たちのたどった戦争と野球を追いました。

1941(昭和16)年の第18回選抜中等学校野球大会において、3回目の全国制覇を果たした東邦商業学校は春夏連覇を目指して動き出していました。春連続8回出場の東邦商業は夏も1939年、1940年と連続出場しており、1941年夏出場となれば、大会史上まだどの学校も成し遂げていない春夏制覇を狙える好機でした。甲子園の春夏制覇は戦後の1962年に作新学院(栃木)が初めて達成しましたが、戦前は1941年まで、まだありませんでした。
夏の地方大会を前にした6月、東邦商業は長野、福井への遠征試合を行っていました。『東邦高等学校東邦商業学校野球部史』(東邦野球部史)によると、6月8日には長野県小諸町で小諸商業学校と試合を行い3-3で引き分けています。
この小諸商との試合の盛り上がりぶりが、『白球にかけた青春 陸軍特攻隊員 渡辺静』(1986年、中島正直著)(以下「白球にかけた青春」)という本で紹介されていました。著者の中島氏は小諸商の4番打者で特攻隊員として戦死した渡辺静の甥にあたる読売新聞記者でした。本文は、<あの「真珠湾奇襲」より半年前の昭和16年6月8日。浅間山(2560m)を背にした信州・小諸町にあった小諸商業(現小諸商業高校)のグラウンドは異様な熱気に包まれた>と「小さな町の大試合」を書き出しています。

「さあ来い、東邦」

「白球にかけた青春」より(後方列が東邦)

「さあ来い、東邦」のタイトルで始まる東邦商対小諸商の対決を前にした場面です。
<常勝の長野商と松本商を打ち破った小諸商野球部は、6月8日、部の歴史に残る一戦を迎える。「信州に小商あり」のうわさが広く中央球界に広がり、この春の選抜大会の覇者、愛知の東邦商がはるばる遠征してきたのだ。東邦商と言えば、中京の、というより、全国の中等野球の雄である。昭和9年の第11回選抜大会に初出場していきなり優勝し、以来、この春の第18回大会まで連続出場。この間、14年の大会に優勝し、ベスト4へも4回。文字通り中等野球の勇者だった。特にこの16年の春は、真田重蔵(海草中=現和歌山県立向陽中学校・高校。和歌山市)、別所毅彦(滝川中=現滝川中学校・高校。神戸市)という球史に残る好投手が集まった中で、堂々3回目の優勝に輝いている。
この強豪を迎えて、浅間山を仰ぐグラウンドは、試合開始前からすごい熱気に包まれた。学校のOBや町のファンが続々と詰めかけて、興奮は高まるばかり。「遠来の名門チーム」に、わが小商がいかに闘うか」――ファンは息を殺してゲーム開始を待つ。現在なら、さしずめ、プロ野球の公式戦を迎えた地方都市の球場といったところだろう>
試合は東邦が2回表に1点をあげるも小諸がその裏3点を返し逆転。その後、東邦が3回と7回に1点ずつを返し3-3の同点に。結局延長12回まで戦い引き分けました。

夏の甲子園中止

第18回選抜大会表彰選手を紹介した記事

第18回選抜大会での表彰選手20人の顔写真が1941年3月30日大阪毎日新聞には掲載されています。右列は上から林安夫(一宮中)、玉置玉一(東邦商)、真田重蔵(海草中)、左列は上から前川正義(東邦商)、青田昇(滝川中)、高山泰夫(岐阜商)です。
春の甲子園の熱気も冷めやらぬ中で、文部省は全国の中等学校に対し、部活動を束ねる校友会組織を「報国団」として組織化し、修練精神の高揚を図りました。東邦商業でも1941年度から校友会が解散し、「東邦商業報国団」が結成され、野球部は「鍛錬部野球班」となりました。
「野球班」とはなったものの東邦商業の夏の甲子園を目指しての練習には一段と熱が入っていました。小諸商との対戦1週間後の6月15日には福井県敦賀市に遠征し、敦賀球場で敦賀商業との練習試合に臨み3-0で勝っています。さらに1週間後の6月22日は、春の選抜1回戦で熱戦を演じた海草中学を鳴海球場に迎え10-0で快勝しました。球場は選抜での東邦・玉置、海草・真田の息詰まる投手戦の再現への期待が高まりましたが、真田の不調もあり東邦が選抜に続き連勝しました。
夏の甲子園予選である地方大会も動き出していました。6月26日付朝日新聞紙上では東海地区の第1次予選日程が発表されました。その後、岐阜県予選では岐阜商業が第2次予選である東海大会への出場を決めていました。
東邦商業では、新聞用紙統制によって「東邦商業新聞」が1940年10月26日第111号で廃刊となり、代わって不定期発行の「東邦商業学校校報」が学校行事を伝えていました。1941年7月12日発行号では、東邦商業の第18回選抜優勝を紹介する特集記事が組まれました。この中で野球班の間瀬貞三主将は「現在我等は夏の大会を目指して毎日猛練習を続けていますから、必ずや26年間中等野球史にかつてない春夏優勝を実現して見せます」と決意を寄稿しています。(第1回全国中等学校優勝野球大会は1915年開催)
ところが、この「東邦商業学校校報」発行日と同じ7月12日、全国の球児たちに衝撃が走りました。文部省から、全国的運動競技大会の中止命令が出されたのです。甲子園大会も例外ではなく夏の第27回全国中等学校優勝野球大会中止が決まりました。
「白球にかけた青春」で、小諸商野球部の丸茂秀雄さんが、部員たちが受けた衝撃を語っています。「大会中止の知らせに返す言葉もなく、みんな泣いた。今までの努力は何だったのだろうと、報われぬ猛練習にいらだちを覚え、地面にグラブをたたきつけた仲間もいた。あんなみじめな思いはなかった」

戦時色に染まる短歌

「東邦商業学校校報」1941年12月24日号

1941年夏の甲子園は中止となりました。野球の練習、試合は続いていましたが、東邦商業では原田健一監督が辞任、エースの玉置玉一も退部していました。9月23日から鳴海球場で始まった東邦商、享栄商、中京商、愛知商の「四商業野球リーグ戦」を伝える「新愛知新聞」は「東邦は原田監督を失い、玉置投手が退部してかなり布陣に異動を見せた」と解説しています。それでも東邦は10月5日、享栄商業を8-4で下し3戦全勝で優勝を決めました。
玉置はプロ野球阪神に入団.していました。四商業野球リーグ戦終了後、東邦からはさらに2人の選手が退部しプロ入りし、チームに動揺が広がりました。東邦商業は11月16日、鳴海球場で行われた島田商業戦に4-6で敗れましたが、「新愛知新聞」は、「東邦商業は玉置、前川、尾崎の中心3選手がプロ球団に走ったため、著しくチームにまとまりが欠けていた」と書いています。
「東邦商業学校校報」の1941年12月24日号は2ページでの発行でした。編集後記には「時局いよいよ重大、今年度の卒業期は3か月早められた。而して学徒たるものは単に机にかじりついてばかりいる時代ではなくて、勤労奉国隊の神旗の下に農場に工場に汗流す秋だ」と書かれています。
掲載された「短歌」12編も、「戦線の兄の武運を祈りつつ吾は学びに励みつつあり」「征く時の雄々しき姿偲びつつ兄の遺骨をしかと抱きぬ」など戦時色に染まっていました。

退部したエースらは阪神に

「阪神球団史」と結成時のポスター

『阪神球団史 タイガースの生いたち』(松木謙治郎著、1973年恒文社)は、1941年度「新陣容」として、東邦商業から入団した松本貞一、9月入団の玉置(のちに安居と改正)玉一らを紹介しています。松本は東邦が2回目の全国制覇を果たした第16回選抜大会(1939年)のエースです。
著者の松木は1941年度の監督で、玉置が東邦から入団した経緯にも触れています。
  <野球ができなくなったうっぷんからか、4年生の夏、暴力事件を起こし、(系列校である)金城商業へ転校を命じられた。しかし、(第18回選抜大会で)東邦商業を優勝させたという自負心から退学届けを出し、学窓を去った。これを聞いた阪神が若林(1942年度から監督の若林忠志)を通じて交渉し、9月29日、名古屋市内の万平ホテルで契約を成立させた。投手として入団したが、制球力不足のため、三塁手としてその打力を伸ばすことになった>と書かれています。若林は法政大学時代、東邦商業のコーチを務めたこともありました。
球団史の翌1942年度新入団選手では8人を紹介しています。第18回選抜大会で20人の表彰選手に選ばれた東邦商業の前川正義、岐阜商の高山泰夫の名前もあります。前川の名前は東邦野球部史や新聞紙面では「政茂」「正茂」ですが球団史は「前川正義 内野手、東邦商業、20歳」と紹介しています。
球団史には「前年12月8日、米英に対して宣戦が布告され、大東亜戦争に突入したため、選手が続々と応召された。帰還したものの、すぐ再招集で抜ける状態となったので、各球団とも戦力が低下した」とも書かれています。前川も阪神には数か月しか在籍しないまま1942年シーズン終了を待たずに召集されました。
前川と一緒に東邦商業野球部を退部した尾崎律夫は1942年度、プロ野球の大洋に入団しています。
小諸商業の渡辺も1943年、プロ野球の朝日軍に入団しました。渡辺が出場した公式戦は5月23日、甲子園球場での大和戦と、7月6日、後楽園球場での南海戦だけ。徴兵検査通知を受け11月19日には退団しています。

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