検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第101回

戦争と球児たち②

1934

更新⽇:2025年1月22日

東邦初の全国制覇とプロ野球の夜明け

第11回大会20校のキャプテンたち

東邦商業学校が甲子園初優勝を飾った1934年の第11回選抜中等学校野球大会。出場20校のキャプテンたちの記念写真が、東邦商業キャプテン河瀬幸介の父虎三郎さんが作成したアルバムに残されていました。横1列20人のうち、右から10人が上、左から10人が下の写真です。上の右から4人目は1回戦で堺中学を相手に17三振を奪った京都商の沢村栄治(巨人、戦死)、下左から2人目が決勝で東邦商と対戦した浪華商投手の納家米吉(法政大―南海、戦死)、6人目が東邦商の河瀬(慶応大、戦死)です。
この年11月からは来日した全米チームを迎えて日米野球が開催され、べーブ・ルースやルー・ゲーリックらMLB選抜チームの迫力に日本中の野球ファンが酔いしれました。日本にはまだプロ野球はなく、日本チームは三原脩や水原茂ら元東京6大学野球のスター選手、京都商業を中退したばかりの沢村や旭川中学を中退したヴィクトル・スタルヒン投手らで編成されました。1932年3月28日に出された文部省の「野球統制令」(訓令)で、「生徒ハ個人ノ資格ニ於テ入場料ヲ徴収スル試合ニ出場スルヲ得ザルコト」と定められていたからです。
18試合が行われましたが、日本は全敗で、一方的に叩きのめされた感じでした。唯一、11月20日、静岡市の草薙球場での第10戦は0-1の接戦負けで、17歳の沢村の好投が光りました。草薙球場に「甦る感動」のタイトルがついた伝説の試合を解説した記念プレートがありました。
<1934(昭和9年)、日本プロ野球の曙の時代、六大学出身者を中心とする全日本チームが、全米大リーグ選抜チームを迎えて親善試合を行った。話題の中心はなんといっても、ホームラン王ベーブ・ルースの初来日であり、彼のホームランを一目見ようと多くのファンが球場へ足を運んだ。全米チームは他にも打撃王・鉄人ルー・ゲーリックやジミー・フォックスを擁する超豪華メンバーで、特に13日から18日の3試合で、50得点、12本塁打と驚異的なパワーを見せた。
11月20日、ここ草薙球場で行われた第10戦で、弱冠17歳の澤村栄治投手がベーブ・ルースをはじめ全米チームより9三振を奪う快投をみせ、初めて互角の試合を演じた。試合はルー・ゲーリックのホームランにより、0対1で負けはしたものの、それは日本野球史上にさん然と輝く快挙であった。
翌1935年(昭和10年)には、日本チームのアメリカ遠征も実現、野球による交流はますます盛んになり、今日、野球は日本で最も愛されるスポーツの一つとして発展するにいたっている。ここに、時代や国境を超えて子供たちの夢を育み、多くの人々に感動を与えた選手たちの球跡を伝える>
主催した読売新聞社社長の正力松太郎は日米野球終了後、全日本チームを中心に、プロ野球球団1号となる「株式会社大日本東京野球倶楽部」(後に「東京巨人軍」に改称)を創設しアメリカでの武者修行遠征に送り出しました。

「日本職業野球連盟」発足と3週間後の2.26事件

2.26事件のつらい体験を語った渡辺さん

1936年2月5日には、「日本職業野球連盟」の創立総会が開催され、プロ野球が正式に誕生しました。加盟球団は東京巨人軍、大阪タイガース(阪神)、名古屋軍、東京セネタース、阪急、大東京、名古屋金鯱の7球団です。1937年にはイーグルス(後に黒鷲、大和と変遷)、1938年には南海も加わります。
軍靴の響きも高まっていました。連盟創立総会3週間後の2月26日には、軍部が台頭していくきっかけとなった2.26事件が勃発。青年将校が率いる1400人余の兵によって政府官邸、私邸が襲撃され内大臣斎藤実、蔵相高橋是清とともに、陸軍教育総監の渡辺錠太郎も殺害されました。4人兄姉の末っ子で9歳だった渡辺和子さん(元学校法人ノートルダム清心学園理事長、2016年12月30日死去)は、わずか1mほどの距離からその現場を目の当たりにしました。
渡辺さんは東邦学園「フレンズ・TOHO」設立20周年記念の講演会(2015年9月19日、名古屋市中区で開催)で語りました。「父は私が9歳の時に亡くなりました。43発の機関銃の弾を身体に撃ち込まれ、私の目の前で。あの日は雪がたくさん降った日でございましたけれど、真っ白の雪を自分たちの血潮で赤く染めて帰って行きました。人が人を殺すのは大変なことだと思いました」。
プロ野球誕生を追いかけるように起きた2.26事件。日本のプロ野球は戦争の拡大と併行する形で歩みを続けました。1937年7月7日には中国北京郊外の盧溝橋で、日中両軍の小衝突を発端として盧溝橋事件が勃発し、日中は全面戦争状態に突入していきます。日本職業野球連盟は1939年から「職業」を削り、「日本野球連盟」と改称し、「紀元2600年」(1940年)7月29日から8月23日まで、全球団が参加して満州でのリーグ戦が行われました。

「職業野球」でプレーした東邦商業出身の11人

捕手は東邦商出身の阪急日比野(1940年)

「職業野球」と呼ばれたプロ野球リーグ戦がスタートしたのは1936年度からですが、毎日新聞社発行『別冊一億人の昭和史「日本プロ野球史」』(別冊昭和史)などによると、大学野球経由も含め、東邦商業出身の11人が1939年度から1944年度までの6年間に各球団に所属しました。
所属球団ごとの東邦出身選手たちは以下の通りです。年度の次のマル数字は同年度リーグ順位。守備の次の数字は背番号(1944年度は廃止)。カッコ内は東邦商業時代の甲子園大会出場年と進学大学です。
▽1939年度 ①巨人②タイガース③阪急④セネタース⑤南海⑥名古屋⑦金鯱⑧ライオン⑨イーグルス
阪急  捕手 12 日比野武(1936~1938)、
▽1940年度 ①巨人②阪神③阪急④翼⑤名古屋⑥黒鷲⑦金鯱⑧南海⑨ライオン
阪急  捕手 12 日比野武
黒鷲  内野 33 岡田福吉(1934~1936年。早稲田大)、外野 35  谷(催玉)義雄(1938~1939)
▽1941年度 ①巨人②阪急③大洋④南海⑤阪神⑥名古屋⑦黒鷲⑧朝日
阪急   捕手 12 日比野武
南海   内野 5 村上一治(1934~1935。法政大)、内野   10 猪子利男(1939~1940)、内野   14  安井健太郎(1934~1935年。日大)
阪神   投手   21 松本貞一(1937~1940)、  投手   31 玉置玉一(1939~1941)
黒鷲   内野   32 竹内功(1937~1939年)、外野 35 谷義雄
▽1942年度 ①巨人②大洋③阪神④阪急④朝日⑥南海⑦名古屋⑧大和
大洋  内野 22 尾崎律夫(1940~1941)
阪神  投手 21 松本貞一、 投手 31 玉置玉一、内野 16 前川正義(1940~1941)
阪急  捕手 12  日比野武
南海  内野 5 村上一治、内野  10 猪子利男
▽1943年度 ①巨人②名古屋③阪神③朝日⑤西鉄⑥大和⑦阪急⑧南海
巨人  投手 29 木村由夫(1941)
阪神  内野 31 玉置玉一
大和  内野 26 岡田福吉
南海  外野 10 猪子利男
▽1944年度 ①阪神②巨人③阪急④産業⑤朝日⑥近畿日本
近畿日本 外野 猪子利男

東邦商業出身のプロ野球選手第1号は1939年に阪急に入団した日比野武です。戦後の1949年には10年表彰選手14人の1人として日本野球連盟から表彰されています。別冊昭和史には、1940年8月12日、満州リーグ戦として奉天球場で行われた阪急対名古屋戦でホームベースを守る日比野の写真が紹介されています。「日本野球選手総覧1948年版」(読売新聞社)は日比野を「東邦商から日大(中退)で捕手。古参選手ながら常に明朗な若々しさに好感が持たれる」と紹介。2リーグ制になってからは西鉄でプレーしました。『プロ野球人国記東海編』(ベースボールマガジン社)は「巨体からの長打はよく知られていたが、38歳になった1958年の西鉄時代、改めて日比野が脚光を浴びたのは、キャリアを生かした捕手としてのテクニックだった」と紹介しています。

「召集まで野球とともにありたい」

阪神入団時の松本(右端)

阪神に入団した松本貞一の1年目、1941年の成績は4勝4敗でした。阪神球団史での松本の紹介です(抜粋)。
<東邦商業が昭和14年(1939年)春の甲子園で優勝した。この時松本は投手で3番打者だった。東邦は夏も甲子園に出場したが、松本は年齢制限のため出場できず、投手は玉置だった。15年春の選抜には再び投手として出場したが、準決勝で神田投手(のち南海)のいた京都商業に敗れた。東邦には以前、若林がコーチに出かけたことがあり、若林の勧誘で松本の阪神入りが決まった。しかし、球速がなく、名古屋軍の森井投手とまさに互格といえる超緩急のカーブ投手だった。「ボールにトンボがとまるぞ」という野次はこの両投手から始まった。この超スローカーブで巨人に2勝した。翌17年は打力を買われ二塁に起用されたが、年末には入営している。(戦後の昭和)21年、阪神に復帰したが、翌年に退団した>
松本が年齢制限に触れたのは父親の製絲業の破産で小学校、高等小学校と休学を繰り返し、静岡県立浜松一中、東邦商業と学校を転々としたためでした。
東邦野球部史への寄稿で、松本は、自分を「世にもまれな高年齢の中学生でした」と書いています。そのうえで、阪神入団の動機について述べています。(抜粋)
<できればもう一つ上の大学をと思わぬでもなかったのですが、高年齢の大学生で、また苦労しなくてもとの思いと、時局が益々急を告げ、日米開戦の時至るという切羽詰まった時代。ならば軍隊に召集あるまで野球とともにありたいと阪神タイガースの門をたたいた次第です>
別冊昭和史の1941年度阪神投手陣紹介写真の中に入団1年目の松本の姿がありました。
阪神を退団した松本は養子に入り木下姓となりました。戦後は1953年に名古屋ドラゴンズ(中日の前身)に入団しましたが主に代打で、翌1954年オフに引退。瀬戸市で陶磁器製造業を営み2007年12月、同市内の病院で88歳の生涯を終えました。

日本プロ野球OB会からの会員証

豊田さんから会員証を贈られる猪子さん

今でこそ華やかなプロ野球選手ですが、戦時中の野球は「敵性競技」であり、野球を生業とする選手たちを「職業野球選手」と呼び、冷ややか目で見る目も少なくありませんでした。
1939年選抜大会優勝メンバーで、東邦商業から南海(後に近畿日本)に入団した猪子利男さんは1944年に応召。戦後は福井県の紡績会社で働いた後、社会人野球クラブ「函館オーシャン」でプレーしました。
猪子さんのプレーは、函館市民を魅了しました。元オーシャン監督で、猪子さんと一緒にプレーをした経験がある辻春信さんは「俊足でアクションも派手。テレビがない時代ですから、とにかく格好よく見えました。勝つために、お客さんを楽しませるために野球をやるという姿勢は一貫していました。敗戦が続くと、後輩たちに、いったい何をやっているんだとカミナリを落とすこともありました。プロ経験者として、ぶざまな姿は見せられないというプライドがあったのでしょう」と振り返ります。塗装店で仕事もしていたこともあり、ペンキでグリーンに塗った〝緑バット〟を持ってグラウンドに現れるなど茶目っ気を発揮することもあったといいます。。
猪子さんは1998年夏、77歳の生涯を閉じましたが、亡くなる前年夏、オーシャン指導のため函館を訪れたプロ野球解説者の豊田泰光さん(元西鉄ライオンズ)から日本プロ野球OB会会員証を贈られました。猪子さんの訃報を特集した北海道新聞に豊田さんはその時の思い出を、「猪子さんは自分が元プロ野球選手だと言っても孫が信じてくれないとぼやいておられました。OB会会員証をお渡ししたらとても喜んでくださいました」とコメントを寄せています。

一覧に戻る

学校法人 東邦学園

〒465-8515
愛知県名古屋市名東区平和が丘三丁目11番地
TEL:052-782-1241(代表)