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INTERVIEW

2016.09.20

【第33回】戦前の東邦学園史を刻んだ『東邦商業新聞』の再発見 下出義雄校長の人物像研究でも期待高まる

愛知東邦大学地域創造研究所顧問

森靖雄さん

(初代経営学部長)

森靖雄(もり やすお)

 愛知県一宮市出身。愛知大学法経学部経済学科卒。同大大学院経済学研究科、法学研究科修了。同大助手、大阪府立商工経済研究所研究員、日本福祉大学教授などを経て2001年東邦学園大学(2007年愛知東邦大学に改称)開学から2007年3月まで経営学部長。地域創造研究所所長も務め現在顧問。『愛知県史』(近代)専門委員。81歳。

 

 東邦高校の前身である「東邦商業学校」が発足した5年後の1928(昭和2)年に創刊された『東邦商業新聞』。戦局が緊迫する1940(昭和15)年の111号まで発刊され、『東邦学園五十年史』の編纂などでもその史料的価値が高く評価されました。その『東邦商業新聞』は保存版が長い間、学園施設の倉庫に眠っていたのが見つかりました。貴重な新聞をどのように活用すべきなのか、地域創造研究所顧問の森先生に聞きました。

 

――『東邦学園五十年史』(1978年発行)には、「編集に際し、我々はこの『東邦商業新聞』にどれだけ助けられたことかはかり難いものがあった」と書かれています。新聞はどこに眠っていたのですか。

 東邦学園の古い施設内に保管されていました。新聞はタブロイド版(普通の日刊紙の半分大)。劣化や破損、欠号、重複も多く、散逸を防ぐためだと思われますが、5冊に製本されていました。私は東邦学園創設者の研究という面から『東邦商業新聞』の存在に注目していましたが、実際に見ることができたのは、「東邦学園下出文庫」で公開した数点だけでした。今回の再発見後、地域創造研究所の中部産業史研究部会でも新聞閲覧への期待が高まりましたが、製本紙面は開くたびに破損が拡大することも心配され、名古屋大学で日本近代政治史を研究してみえる真野素行氏に調査を依頼していました。

 

――発見された『東邦商業新聞』のどんな点に注目、期待していますか。

 中部産業史研究部会では8月4日の研究例会で真野先生に調査結果を中間報告していただきました。5冊に製本されていたのは、欠号や重複はあるものの第10号(1928年6月23日)から、戦時下で用紙が調達できず廃刊号となった第111号(1940年10月26日)までと、『東邦商業学校校報』第3号(1941年11月12日)、第4号(同12月24日)でした。野球部など運動部の活躍、時事問題、経済界の動向まで紹介されており、当時の中等学校では全国でもまれなレベルの高い内容ということでした。特に私が期待しているのは、校主の下出民義氏とともに副校長、校長として直接学校経営にあたられた下出義雄氏の発言が掲載されている紙面が多いという点です。1937年夏、日本経済連盟会使節団の一員としての欧米を歴訪した時の報告記事なども含め、義雄氏の思想を検討する大きな手がかりになるはずです。

 

――私も学術情報課に預けられている5冊をそっと見させてもらいましたが、興味深い記事がたくさんありました。ただ、製本のままでは綴じ目は読めず、コピーも困難ではありませんか。

 真野先生も報告の中で、現状形態のままでは閲覧上も保存上も問題があり、重複紙面を発行号順に整理し、誰もが閲覧できるようにする必要があることを指摘されました。中部産業史研究部会にとっても非常に興味深い研究史料ですが、不便ではあっても製本されていたから残ったと思われるし、東邦学園にとって貴重な財産ですから、今利用と保存の両面から適切な方法を探っているところです。

 

――具体的にどんな方法が考えられますか?

古い文書をスキャナーで読み込みデジタル化する専門業者もあります。そうした業者と相談して、例えば、一度バラして号数順に配列しなおして原本は再製本するような方法などです。閲覧用はデジタル写真版で利用してもらい、現物のいたみを進行させないようにします。『東邦商業新聞縮刷版』として多くの卒業生の皆さんや全国の研究者などにも読んでいただけるようにできるとなお良いですね。そうする価値も十分にあると思います。地域創造研究所を通じて東邦学園としての善処をお願いできればと考えています。

――第10号には東邦商業学校の第1回卒業生名簿(1928年5月1日調査)が掲載されていました。三菱銀行、愛知電気鉄道、愛知石炭商会、東邦電力といった大手企業への就職者や名古屋高等商業学校や東京の私立大学などへの進学者もいました。

 10号は、興味本位で見るには危険な破損状態ですので私はまだ詳しくは見ていませんが、そういう内容だと当時の実業学校卒業生の進路や中等学校と高等教育機関との接続という面でも貴重な記事だと思いますね。戦前、中学校や商業学校に入学できたのは経済的にある程度恵まれた層です。私はこの時代より数年後の世代で、地方都市の国民学校で学びましたが、子どもを中学校に通わせることができた家は町内でも数軒止まりでしたね。しかも昭和初期はまだ高学歴者の就職先も少なかった時代ですから、第1回卒業生たちの時代は、就職は基本的には本人やその家族が探されたはずですが、中には義雄校長の実業界のツテで入社された方もあったかも知れませんね。

 

――戦前の甲子園選抜大会で全国優勝3回を誇った野球部に関しての記事はさすがに充実していました。

 下出義雄校長は野球が大好きで、ご自身も愛知一中時代は野球部。慶応に進んで半年ほどで神戸高等商業に移られましたが、慶応に在籍した半年間も野球部で、ピッチャーとして試合に出ておられたようです。奥様にインタビューしたことがありますが、義雄校長はスカウトしてきた選手たちを自宅に下宿させておられたということでした。よその学校はスカウトしてきた選手をすぐに試合に出したようですが、義雄校長はじっくり準備し、満を持して試合に送り出されたと聞いています。で、初出場・初優勝です。野球以外の運動部や短歌、弁論部、珠算部なども全国常勝校だったようですから、紙面から様々な分野で未発掘の話が次々に出てくるのではないかと楽しみです。

 

――『愛知県史』専門委員をされていますが、大学教員時代は歴史も教えていたのですか。

いいえ、大学では地域経済論などを担当していました。ただ、中・高校生の時から、個人的に先生について古文書解読法を学んでいましたから、江戸時代の文書が読めるんです。愛知大学では助手として、出来たばかりの文学部史学科で古文書講読の復習なども手伝っていました。大学院・助手時代も江戸期や明治期以後の村落調査で手書きの文書をかなり読みました。『愛知県史』では近代史チームの専門委員ですが、和文タイプライターが登場する 明治30年代初めまでの文書はすべて手書きでした。江戸末期に比べると我流の字体が多くなりますが、私は墨書や手書き文字を読むことには抵抗がありませんので、「近代1」(明治5年~42年)の産業経済の担当です。

「『東邦商業新聞』は学園にとって貴重な財産」と語る森さん

再発見された『東邦商業新聞』について報告を受ける中部産業史研究部会(8月4日)

5冊に製本されて保存されていた『東邦商業新聞』

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