東邦高校を2014年に卒業、独立リーグBC信濃で捕手として活躍していた松井聖さん(25)が、育成枠ながらプロ野球選手の夢をつかみました。高校時代、甲子園出場の夢を果たせなかった挫折を乗り越えてつかんだヤクルト入団。入団報告のため、東邦高校を訪れた松井さんが榊直樹理事長、藤本紀子校長、小嶋裕人野球部長に高校卒業以降を振り返りながら決意を語りました。
――ヤクルトから指名を受けての今の心境は。
キャッチャースキルを買われて採ってもらい嬉しかったです。25歳ですから、ヤクルトの指名では最年長。今年が最後のチャンスだと思っていました。今年NPB(日本野球機構)に行けなければ、野球はやめようと思っていました。25歳が区切りかなと思いました。
――予感はありましたか。
10月26日のドラフト当日まで分かりませんでした。高校生はプロ志望届けというのを出すんですが、僕らはBCリーグというプロ野球の団体なので、調査書という球団からの紙が来ます。もしかしたらドラフトで声がかかるかも知れないという内申書みたいなものです。僕には日本ハムとヤクルトから来ていました。独立リーガーで、25歳で2枚といのはだいぶ少ない方です。7枚、8枚が7球団、8球団から来て、初めて「もしかしたら」という気になる。だから、夢かと思いました。昔やってきたこととか、いろんなことを思い返しながら、野球を続けてきてよかったなと思いました。
――昔やってきたことって、東邦高校時代に甲子園を逃したことですか。
そうです。僕は小学校からずっと野球ばかりやってきて、野球を取ったら何が残るんだろうという生き方をしてきました。東邦高校時代に甲子園に行けなかったことも含め、いろんな分岐点があった野球人生だったと思いました。回りまわって、プロになれてよかったなと思いました。
――松井君たちが3年生で出場した2013年夏の愛知県大会で、東邦は刈谷球場での5回戦で享栄に2―9でコールド負けしました。
あれから、もう野球はいいかなとも思いました。遊びの方にも走ってしまいました。大学は中部大学に進みましたが、中退してしまいました。高校時代は僕が一番だと思っていました。その気持ちが大学で違う方向に向いてしまいました。独立リーグを4年経験して思ったのは、「一番」というのは、自分の中だけにしておいた方がいいということでした。それが分かっていなくて、周りに、「俺が一番だよ」とアピールしてしまった。だから、監督や首脳陣であれば、使いたいとは思わなくなる。大学の監督には、キャッチャーとして向いていないとも言われました。監督は社会人野球のキャッチャー出身で、人間的にもだめだと分かったんでしょう。独立リーグを経験してよく分かりました。大学の監督の指摘を聞き入れなかったのも遠回りした原因だと思っています。
――中部大学を3年でやめたのは残念なこととは思うけど、そのあと、どんな気持ちで香川に行ったのかな。
香川に行ったのも、両親から、もうちょっとしっかり野球をやってほしいと言われていたからです。大学のグラウンドにも顔を出さなくなり、森田監督にも、小嶋部長にも、担任だった大岡亜希子先生にも、東邦高校自体にも本当に泥を塗ってしまいました。これで野球から引退となったら、だれにも顔を合わせられないと思いました。最初は1年だけのつもりでしたが、家族にもう1年やらせてほしいと頼みました。お金もかかるし、家からはもう勘弁してくれと言われましが、もう1年だけだからと言って3年やってしまいました。
――家からは援助してもらったの。
香川の時は年収が60万円くらいしかなく、バイトして家賃を払って全く残らない状態。家賃だけは親に出してもらいましたが、あとの生活費は自分で何とかしました。午前中野球をして、夕方から夜12時までは時給の高い近くのパチンコ店でバイトしました。帰ってから洗濯をして。地元の同年代が、僕より何倍も稼いでいた。何のためにここまで野球をするのかなと思いました。それでも、グラウンドではやはり野球が楽しい、離れたくないな思ってしまう、その葛藤が一番きつかったです。
信濃に移ってからの2年は、収入が香川の2年間よりは4、5万円アップしたので、お金に関してのこだわりなくなりました。ここまで来たら、野球以外のことは考えまいと思いました。
――話し方がしっかりしていますね。
いろいろ上の方々と話す機会が増えていくうちにこうなりました。今年はキャプテンだったので、長野県庁にあいさつに行ったり、表敬訪問したりして、社長とか監督の話を聞いていると、自分のこれまでの言葉遣いはだめだなと思いました。信濃で野球以前に大切なことも学びました。それを評価していただいてすごくうれしいです。
――森田監督は2013年のチームを、練習試合では大阪桐蔭も智弁和歌山も退け、史上最強のチームだと言っていました。それなのに5回戦で享栄にコールド負けだった。
(甲子園にいけず)申し訳ないです。キャプテンもキャッチャーも僕でした。僕が戦犯です。チームをまとめ切れていなかった。僕以外は違うと思いますが、僕は天狗になっていました。享栄なら勝てると思った。一発勝負に勝てる勝てるはないんです。今になってそれに気づきました。本当にみんなには申し訳なかったです。
――あそこでもし甲子園に行けていたら今の松井君はないかも知れない。
よけいに調子づいていたでしょうね。大学も辞めて、いろんな方々にいっぱい迷惑をかけてきました。それがあったから今ここでしゃべれています。何より、考え方が変わりました。この先、どんなことがあっても、野球以外のことでもやっていける自信があります。野球生活が終わった後のその先の人生はずっと長いので、遠回りの6年、7年は僕の中では一生の財産になると思います。次は支配下になってあいさつにこれるよう頑張ります。